深夜図書

不定期に23:30更新しています。独断と偏見、ネタバレ必至ですので、お気をつけ下さいまし。なお、ブログ内の人物名は敬称略となっております。

インザ・ミソスープ/村上龍~親も教師も国も奴隷みたいな退屈な生き方は教えてくれるけど、普通の生き方は教えてくれない~

≪内容≫

夜の性風俗ガイドを依頼してきたアメリカ人・フランクの顔は奇妙な肌に包まれていた。その顔は、売春をしていた女子高生が手足と首を切断され歌舞伎町のゴミ処理場に捨てられたという記事をケンジに思い起こさせた。ケンジは胸騒ぎを感じながらフランクと夜の新宿を行く。97年夏、読売新聞連載中より大反響を引き起こした問題作。読売文学賞受賞作。

 

インザ・ミソスープと聞いたらなんとなく平和な気がしませんか。

味噌汁という言葉は多くの日本人にとってお母さんを思い出す温かいイメージを持っていると思う。

味噌汁はなんでも受け入れる。

玉ねぎでも油揚げでも納豆でもさつまいもでも肉でも魚でも、味噌汁の中に放り込まれれば何とか上手く調和していく。

自分の持ち味よりも、他者との兼ね合いを重んじることを自然に成している味噌汁は現代の日本社会を表している。

 

村上龍ってタイトルが秀逸だと思う。

 

 

何か言うのと伝えるのは違う

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この外人に意思を伝えなくてはならない、と思った。

何か言うのと、伝えるというのは違うのだと初めてわかった。

 

さっき三番の女は幼児がだだをこねるようにカラオケのマイクを握ったままソファをこすったし、喉を切られる前に五番の女は突然うたいだした。それは何かの信号で、彼女達は何か言おうとしたのだ。

 

だが、フランクには伝わらなかった。ああいう方法では何も伝わらない。伝えようという意思がなければ、伝わらない。

そしてフランクが現れる前のこの店は、伝えようという意思がなくても、あ、うんの呼吸で物事はひとりでに伝わるものだというこの国の象徴のような状態だった。

そういう中でずっと生きてきた人は緊急時にはパニックになって、言葉を失い、殺される。

 主人公ケンジは奇妙なアメリカ人フランクのアテンドをすることになった。

 主に性的な場所へ連れていくのだが、その中で入ったお見合いパブでフランクはいきなりそこにいる全ての人間を惨殺し始める。

 

"甘え"ですよね。

言わなくても分かるよね?っていう甘え。

フランクが殺人を始めるまでの会話に違和感を感じる人はいないと思います。

 

あ~この人こう言って欲しいのね~→「そうよねぇ~」

店員イヤそうな顔だな~→「よし!そろそろ店を出よう!」

って普通の対応だと私は思ってしまう。

そこでいちいち自分の意見を言うより相手に合わせちゃう。

そういうときに出る言葉ってスカスカで意味のない言葉。

 

目の前で殺人が起きても「こんなことはダメだよ、ね?分かるだろう?」と言葉にしないで表情で相手に読み取ってもらおうとする。

自分ありきの会話がなくて、相手が読み取ることを前提にしてる。

 

言うのと伝えるのが違うなら、どれくらい"伝える"ってことをしているだろう。

雑談が無駄ってことじゃなくて、伝えたいこと自体どれだけあって、伝える相手を選んでばかりいないか。

この人は分かってくれそう・・・この人はやめておこう・・・この人とは当たり障りない会話にしておこう・・・。そうやってどんどん伝えたいこと自体がなくなっちゃう。

 

だって伝えなくたって死なないし、会話になってるし、むしろ真面目かwなんてバカにされるし・・・。

 

でもそんなんでいいのかな。

そうやって全部が「ヤバイ」って言葉で表現できるようになっちゃって。

言葉がどんどん自分から消えていっちゃって。

 

緊急時じゃなきゃ伝えたいことがないなんて、どれだけ日々薄っぺらい会話をしているのだろう。

どれだけ他人を求めてないんだろう。

自分のことしか考えていないから、伝えたいことがないんだと思う。

 

 

人間の偽物

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あのお見合いパブには、嘘のコミュニケーションしかなかった。歓楽街の飲み屋なのだから、みんなが本当のことを言い合うわけがないし、真剣な相談があるわけはない。そんなことではない。

 

たとえばチャイニーズクラブやコリアンクラブの女達だって、チップが欲しいから平気で嘘をつく。

でも彼女達の大半は稼いだ金のほとんどを故国に送っていて、それは残された家族が生きのびるための資金だ。

中南米の女達も、家族にたとえばテレビを買ってやるためにからだを売っている。彼女達は真剣だ。欲しいものがはっきりしているから、迷うことがないし、何となく寂しい、とは思わない。

 

あのお見合いパブのような場所は子どもには見せられない。

汚れているからではなくて、そこにいる連中が真剣に生きていないからだ。どうでもいいことのために、みんなあそこにいた。

これがなければ死んでしまう、というような目的を持ってあの店にいた人間は一人もいない。

マスターにしろボーイにしろ同じで、何となく寂しいからという理由でただ時間をつぶすためにあの店にいたのだ。

 

あそこで死んだのはそういう人間達だった。

 店を出たケンジとフランク。

フランクは警察に行っていいとケンジに言いその場を去る。

すぐそこに交番があるのに、ケンジはなぜか殺された日本人たちをかわいそうだと思えなかった。

 

この気持ち、ついこないだ友人たちに伝えようとして伝わらなかったことで。

「人志松本の許せない話」にならって「わかる話」しよう!ってなって、四人で話していて、改札で残金不足で列を止めちゃうのに腹が立つ「「「わかるー」」」っていうノリで進んでたのですが、私の番がきて何でも「わかるー!」っていう人がイヤって言ったら「「「わからん」」」ってなりまして。

 

例として

A「マンガ好き!」

B「わかる!おもしろいよね!」

C「私マンガ読めない・・・」

B「わかる!読むの疲れるよね!」

という何でも「わかる!」っていうBがイヤなんですけど、私以外の三人は

「でもさ、否定するよりよくない?」

「会話を円滑にするためだよ」

「そこで空気壊したくないじゃん」

って言っててめっちゃショックでした。

 

私がなんでイヤかっていうと、Bが本当は何が好きかとかBがどう思っているのかとか全然分からないじゃないですか。

これが宗教とか大事なら別ですけど、マンガ好きか嫌いかっていうめっちゃどうでもいい話さえ本音が分からないなら、何のための会話?ってか会話じゃないじゃんって思うんです。

別に白黒つけたいわけじゃなくって、そういう些細な好き嫌いさえ隠されたりすると、どうやってコミュニケーション取ったらいいか分からないんですよ。

話してても、駆け引きになっちゃうんじゃないかって疑心暗鬼になるし・・・って言ったら、「皆そこまで真剣に話してないから。」って言われました。

 

じゃあさ、真剣に話さないなら、なんで話すの?って思う。

相手のすっごいどうでもいい好き嫌いとか、どうでもいいこととか、そういうのを知りたいから話すんじゃないの?

そういう会話の中から「この人はもしかしたら趣味合うかもなぁ」とか「こういう話してみたいなぁ」とか発展していくのに、そのすっごいどうでもいいことさえ嘘なら、死ぬほど意味ないと思う。

そんな会話ともいえないコミュニケーションするくらいなら話さない方がマシだと思う。

話す時間だって、読書したり映画観たり出来るし。

なぜそんな無駄な時間を過ごさなきゃいけないのか、なぜそれが良しとされているのかほんとに意味が分からない。

 

ってことを言ったら、「相手は君のことをどうでもいいと思ってるから真剣に話さないんだよ」って言われてすっごい腑に落ちました。

 

真剣に話す気ないなら話しかけんなよ!!

私ってコミュニケーション能力あるでしょ~っていうパフォーマンスですか?

 

私もどうでもいいと思ってるような奴のために警察なんか行きたくないわ。

殺人鬼だって、自分のことを隠さずに話すフランクの方が信じられる。

別にフランクが好きだとか感情移入したとか、そういうのじゃなくて、真剣に話すことは相手への敬意でもあって、そこをないがしろにする人間よりかは信用があるという話です。

 

殺人はいけないこと、殺された人たちにも家族はいるし悲しむ人もいる。

もし、自分が全く関係ないところで、路上で人が死んでたりしたら通報するだろうけど、コミュニケーションの場で嘘をつくような人間に対して人間と思うかと考えると、人間にも偽物がいるんじゃないかって思えてくる。

 

 

 

自覚できない恐怖

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 (前略)

人間は想像する、あらゆる動物のなかで、想像力、を持っているのは人間だけだ、他の大型獣に比べて圧倒的に非力な人間が生き延びていくためには、想像する力が必要だった、

(中略)

子どもは残酷だとよく言われる、子どもは昆虫や小動物をよくいじめたり殺したりする、玩具を壊す子どももいる、それは興味本位でやっているのではなく、想像力の不安を現実の中にスルーさせて逃がすためだ、昆虫をいじめて殺すという自分の想像力に耐えきれなくて、昆虫を殺しても自分や世界が崩壊するわけじゃないことを無意識に試しているんだ、

(後略)

この「昆虫を殺しても自分や世界が崩壊するわけじゃないことを無意識に試しているんだ」って誰もが経験あると思うのですが、こうやって分かりやすく言葉に出来るのがほんっとうにすごい。

 

昆虫じゃなくても、例えば絶叫マシンとかホラー映画とか強く不安を感じるものに対してあえて挑戦することで、絶叫マシンは自分を放り投げたりしないこと、ホラー映画は絶対にフィクションだということを自分の身をもって確認することで、恐怖を乗り越えている。

 

一番恐ろしいのは"恐怖"を"恐怖"だと自覚できないこと。

絶叫マシンもホラー映画も「もしかしたら安全バーが壊れて投げだされて死ぬかも」とか「もしかしたらこの家にも幽霊がいて呪われるかも・・・」とか恐怖を自覚出来る。

 

最後のシーンでケンジとフランクが年越しそばを食べるシーン。

なぜ日本人はこのそばを食べるのか?という問いに長く生きるようにと答えたケンジ。

フランクがなぜ日本人はそばを食べたら死なないと思ったのか?と聞いたのでケンジは死なないわけじゃないと答えると、フランクは不思議そうな顔をした。

確かに、意味として、長く生きることと死なないことは同じことだ。ひょっとしたら、とおれは思った。

この国では長く生きることと死なないことはニュアンスが違うのではないか。自分達を殺すために外部から誰かがやってくるというイメージを日本人は持ったことがないのではないか。

自覚出来ない恐怖の象徴がフランクです。

 

日本以外も国はあって、戦争は終わっていなくて、日本に来る出稼ぎのアジア人娼婦たちは生活のために、家族のために働いていて。

それで、とうの日本人たちはというと、正体不明の"寂しさ"に侵されている。

否定しない、空気を壊さない、そうやってキレイな円にしようとするほど、削られていく人たちがいる。

真剣に話さないことがノリのいいことで、ポジティブこそが良いことだったら、真剣に考えてしまう人は息苦しい。

それが寂しさを作るんじゃないのかなぁと思う。

否定されようが、空気が壊れようが、「伝えよう」っていう気持ちが乗ってる言葉は相手を包むと思う。

「マジメかw」とか「まーまー楽しくお話しようよ」なんて言うのは本当の楽しさを知らないんだろうなぁって思ってしまう。

 

本当に楽しいのは「一人じゃないんだ」って思えたとき。

そう実感出来るのは「一人かもしれない」って不安を口に出して人に言ってみること。試してみなきゃ、その不安や恐怖からは逃れられない。

 

真剣に考えてたら疲れるって人は真剣に考えるってことを履き違えてる。

真剣に考えたり突き詰めて他人と話し合ったりする時にこそ孤独を超えて、生きてるってことを感じられる。

恋人がいるとか、やりがいのある仕事をするとか、そんなんじゃない。

 

 

ケンジはフランクを否定することなく最終日までアテンドを務めた。

人には人の事情がある。

自分の意見を押し付けるより、他人の話を聞いて熟考するケンジはまさにミソスープ。

知らず知らずにケンジのやさしさに絆されたフランクは、最後にはミソスープの中に混ざり合う。

 

日本人だからこそ持ってる包み込むような淡いやさしさ。

そのやさしさは時に恐怖に苛まれるが、恐怖を包み溶かすこともできる。

 

 

インザ・ミソスープ。

私は色んな野菜がごちゃごちゃと入ってて、更にこんにゃくとか豚肉とか、なんでもアリな豚汁が好き。

調和はするけど、それぞれの味や歯ごたえはそれぞれのまま。

個性を殺す調和じゃなくて、個性を認め合う調和がいい。

認め合う為に、真剣に自分の言葉を伝えよう。