深夜図書

書評と映画評が主な雑記ブログ。不定期に23:30更新しています。独断と偏見、ネタバレ必至ですので、お気をつけ下さいまし。なお、ブログ内の人物名は敬称略となっております。

ライ麦畑でつかまえて/サリンジャー~人を憂鬱にするには悪人でなければならんということはない~

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≪内容≫

 インチキ野郎は大嫌い! おとなの儀礼的な処世術やまやかしに反発し、虚栄と悪の華に飾られた巨大な人工都市ニューヨークの街を、たったひとりでさまよいつづける16歳の少年の目に映じたものは何か? 病める高度文明社会への辛辣な批判を秘めて若い世代の共感を呼ぶ永遠のベストセラー。

 

私は大人になっちまった・・・。

読むのが大変だった。何度も放棄しようと思った。

だけど、そういう本こそ読んだ方がいい、と、楽に読める読書ばかりするな、と、誰かが言ってたので、あきらめずに読了。

これ中学生くらいに読むといいらしいですね。

私はもう大人の社会に飼いならされてしまったようです。

 

戦うより諦める方が簡単なんですよね。

それが如実に分かる一冊。

 

自分がインチキでないとどうしてわかる?

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主人公・ホールデンがしたことを、私は出来なかった。

ホールデンのように人とは違う考えを持ったとき「皆がこうしてるから、きっとそっちが正しいんだ」って自分の疑問を搔き消してきた。

自分が好きなこと、おかしいと思うことよりもその他大勢、つまり流行とかニュースとかクラスの雰囲気とか、そういうものを大事にしていた。

 

例えば進学のときに「なぜ大学に行くの?」と聞いたとき、たいていはなぜそんなことを聞くのか?という「え?なんで?」という返答になる。

何のために大学に行くのか、何を勉強したくて進学するのか、そういう話をしようとする奴はめんどくさがられる。

 

ホールデンはめんどくさい奴だ。

とりあえずこんなものかなって皆それぞれ曖昧なラインで生きている。

何が違うとか正しいとかそういう基準がまず曖昧なのだ。

しかしホールデンは、自分が違うんじゃないかって思ったことに真摯に向き合っている。

 

彼は妹のフィービーに将来何になりたいのか?と問われこう答える。

 

つまりね、始終、無実の人の命を救ったり、そんなことをしてるんなら、弁護士でもかまわないよ。

 

ところが弁護士になると、そういうことはやらないんだな。

何をやるかというと、お金をもうけたり、ゴルフをしたり、ブリッジをやったり、車を買ったり、マティーニを飲んだり、えらそうなふうをしたり、そんなことするだけなんだ。

 

それにだよ。

かりに人の命を救ったりなんかすることを実際にやったとしてもだ、それが果たして、人の命を本当に救いたくてやったのか、それとも、本当の望みはすばらしい弁護士になることであって、裁判が終ったときに、法廷でみんなから背中をたたかれたり、おめでとうを言われたり、新聞記者やみんなからさ、いやらしい映画にあるだろう、あれが本当は望みだったのか、それがわからないからなぁ。

 

自分がインチキでないとどうしてわかる?

そこが困るんだけど、おそらくわからないぜ

 

ここが本書の真髄だと思う。

 

「将来の夢」を聞かれるとなぜ職業を答えなければいけないのだろう。

質問者は子どもに「パイロット」とか「ケーキ屋さん」とかそういう答えを求める。

子どもは大人が求めている答えを出したがるから、この答えがおかしいと気付くのは大人になってからだと思う。

職業は決して自分自身ではないし、肩書は自分を説明してくれない。

職業は仕事の中でしか作用しない。

 

子どもが自由なのは肩書に縛られないからだ。

大人は肩書に縛られたがる。

そのうち、肩書に乗っ取られる。

弱者を救いたくて弁護士になったのに、弁護士でいるために長いものに巻かれていく。

誰もがそうだとは言わないけれど、そういう力を持ったとき、自分は絶対にインチキではないって言えるだろうか。

私はホールデンと同じく困ると思う。

 

きっかけは「誰かを救いたい」だったとしても、他者から感謝されたり賛辞を受けたりすることで、本当はそっちが目的だったのではないか?って疑心を抱くと思う。

本当に誰かの為にって思うなら感謝も賛辞も必要ないんだから。

そこで気分良くなってしまう自分に自分で不信を抱く。

 

この引用文のあとに有名な「ライ麦畑で子どもたちをつかまえたいんだ」って話になるんですが、このライ麦畑は大人が誰一人もいなくって、崖から落ちそうな子どもをつかまえるっていうライ麦畑のつかまえ役になりたいとホールデンは言います。

 

大人が誰もいなくって、子どもたちは「ありがとう」を言う子もいれば、そのまままた走りまわる子もいるだろうし自由です。

 

人は生きていれば多かれ少なかれ「誰かの為に」っていう気持ちがあると思います。

やさしくしたい気持ち、助けたい気持ち、救いたい気持ち。

そういう気持ちが生まれたときは純白です。

自分のそういう気持ちを誰にも何にも、自分にも汚されないためには、相手に気付かれない必要があるのです。

自分の善き行いを誰かに知ってもらいたい、評価してもらいたい、そういう気持ちが芽生えた時点で「誰かの為に」なのか、「善き自分を認めてもらいたい」なのか分からなくなる。

評価してもらいたくなくても、社会は否応なしに評価していく。

 

自分だけが知っていればいい。

自分がつかまえたからこの子は崖に落ちなくて済んだんだってことを。

他の誰も、その子でさえ気付かなくたって、それで自分は嬉しいから。

インチキじゃない「誰かの為に」を自分で信じられるから。

 

 

どうしてみんな簡単に人を好きになれるの?

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僕のどこがいけないのか、君にはわかるかね?

僕は、あんまり好きでない女の子相手だとーどうしてもセクシーな気持ちになれないんだよー本当にセクシーな気持ちには、だぜ。

つまり、うんと好きでなきゃだめなんだな、僕は。

好きでないと、相手に対する欲情やなんかが、消えちまうみたいなんだ。おかげで僕の性生活はひどくみじめなものになっちまうんだな。

鼻もちならんよ、僕の性生活は

 

他のルームメイトが色んな女の子と寝てたりするのに、娼婦がきても何も出来なくって帰ってもらうホールデン。

セックスはしたい。女の子にも興味はある。

だけど、誰でもいいわけじゃない。

ちょっといいってだけでもだめ。

うんと好きでなきゃだめ。

 

分かるなぁ。

 

好きとか、嫌いとかなーんにもないときは恋人が欲しいとかイチャイチャしたいとか思うのに、まだ好きになっていない人に告白されるとそういう欲が消えちゃうんですよね。

 

その人が好きだから恋人になりたいのか、恋人が欲しいからその人と付き合うのか。

まぁ嫌いじゃないから付き合うのか、ヒマだしいっかで付き合うのか。

なんとなくいい感じと思って付き合うのか。

とりあえず付き合ってみなきゃ分からないし・・・で付き合うのか。

好きで、その人と居ると幸せな気持ちになるから付き合うのか。

 

自分で自分をごまかせないから「軽い気持ちでいいからさ」っていうのが、相手の人間性を疑うくらいの言葉に聞こえてしまいます。

 

ホールデン、私もひどくみじめだよ。

でももう結構諦めてるからそこまで悲しくないよ。

 

無神経でインチキでいやらしい

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私はいやらしいっていうのが一番嫌いです。

相手もそうだけど、自分自身がいやらしい行動とか言葉を使うのが本当に嫌。

解説より

 

しかし、「幸運を祈るよ」と歴史のスペンサー先生に言われて、反射的に嫌悪を感じ、自分ならばそんなことは絶対に言わないだろうと思うホールデンの感覚は、たとえば、葉書などに「ご多幸を祈る」と書くことに抵抗を感じたことのある日本人ならば、容易に理解することができるはずだ。

 

祈りもしないのに祈ると言い、祈る対象すら持たぬ人間が祈ると書くーその無神経、そのインチキさ。

更には「幸運とは何か」、相手の「幸運を祈る」とは具体的にどういうことか、それを考えもしないで安易に口にする無責任さ。

 

これがもし、相手を罵倒するなり、揶揄するなり、相手にマイナスを与えるような、従って自分もそのため不利になるような場合なら、あるいは許容されるかもしれない。

しかし、相手にプラスを与える性質の言葉を、自分の真意以上の効果を孕ませて口にするのはいやらしい。

 

 こういう思ってもいないことをいかにも善人面して言ってくる奴。

こういう奴は人を心配しているんじゃなくて、自分イイ奴アピールの材料に人を使っているだけだと思う。

 

こういうところ突っ込むと露骨にイヤな顔されるし、こっちとしても関わりたくないんで言わないけど、そういう行動のインチキさを気付かれていないと思っている浅はかさ。

 

 

海軍さんと僕は、お互いに、お目にかかれてうれしかったと挨拶をかわした。これがいつも僕には参るんだな。

会ってうれしくもなんともない人に向かって「お目にかかれてうれしかった」って言ってるんだから。

でも、生きていたいと思えば、こういうことを言わなきゃならないものなんだ。 

 

世の中、嘘のコミュニケーションだらけ。

生きていたいと思うなら嘘のコミュニケーションをこなさなきゃならない。

 

面白くもない話をこんなに面白い話は聞いたことないってくらい笑って、興味のない話題に精一杯喰らい付いて知りたいですって顔して、初対面の人に会えて良かったとかすらすら嘘っぱち並べて、相談されても具体的に何が出来るかも考えていないのに困ったことがあったら言ってねとか言ったり言われたりして。

 

そうやって世の中の平和は保たれています。

善人ツラした奴らがイイ人とされ、インチキさや無神経さに潔癖な人間が冷たくてめんどくさい奴とされる。

じゃあもう全部嘘でいいじゃんかって思うけど、そんなの出来るならやってる。

 

ホールデンほど純粋じゃない私は、変な奴くらいの距離間で社会の中に入っている。

生きたいなら嘘のコミュニケーションが必須だけど、嘘のコミュニケーションのために生きることになったら心が死んでしまう。

 

私はもう嘘のコミュニケーション歴も長いからホールデンの苦しみに「そんなこと言ったってしょうがないじゃないか・・・」と思って読んでました。

「そうそう!」っていうより「そうなんだよね・・・」って。

大人になって読んだら、いかに自分がインチキに染まっているか気付いて辛いかもしれません。

でも世の中には自分を「絶対的な善」と信じて疑わない人間がいるので、少しでも自分はインチキなのかもしれない?インチキではないと言い切れるか?と思った人は、嘘のコミュニケーションの空しさを感じていると思う。

自分がインチキでないといつから錯覚していた?