≪内容≫
「幸福は一夜おくれて来る。幸福は、―」。女性読者から送られてきた日記をもとに、ある女の子の、多感で透明な心情を綴った表題作。名声を得ることで破局を迎えた画家夫婦の内面を、妻の告白を通して語る「きりぎりす」、情死した夫を引き取りに行く妻を描いた「おさん」など、太宰がもっとも得意とする女性の告白体小説の手法で書かれた秀作計14篇を収録。作家の折々の心情が色濃く投影された、女の物語。
私は、なぜ太宰治は男なのにこんなに女の心持ちが分かるのだろう?と思って読んでいました。
桜庭一樹が書くのが少女。
太宰治が書くのが女。
女生徒でも女。
女生徒
小さい時分には、私も、自分の気持とひとの気持と全く違ってしまったときには、お母さんに、
「なぜ?」と聴いたものだ。
そのときには、お母さんは、何か一言で片づけて、そうして怒ったものだ。悪い、不良みたいだ、と言って、お母さんは悲しがっていた様だった。お父さんに言ったこともある。
お父さんは、そのときただ黙って笑っていた。
そして後でお母さんに「中心はずれの子だ」とおっしゃっていたそうだ。
だんだん大きくなるにつれて、私は、おっかなびっくりになってしまった。洋服いちまい作るのにも、人々の思惑を考えるようになってしまった。
自分の個性みたいなものを、本当は、こっそり愛しているのだけれども、愛して行きたいとは思うのだけど、それをはっきり自分のものとして体現するのは、おっかないのだ。
人々が、よいと思う娘になろうといつも思う。
たくさんの人たちが集ったとき、どんなに自分は卑屈になることだろう。口に出したくも無いことを、気持と全然はなれたことを、嘘をついてペチャペチャやっている。
そのほうが得だ、得だと思うからなのだ。
いやなことだと思う。
人が求める良き娘になって両親を喜ばせたい気持ちと、自分に嘘を付きたくなくて、人と違う視点を持ってしまうことを受け入れたい気持ち。
子どもとは複雑なもので、自分の中の自我に従えば世話してくれる親を失うかもしれないという所に立っているので、自分の個性を打ち明けるのは怖いのだ。
そして、出来るなら親を困らせたくないという子ども心と、ありのままの自分では親に迷惑をかける存在だという絶望。
頑なに自分を貫くより、適当に人に合わせて嘘をついてペチャペチャやる方が得だし楽なのだ。
そして、そのことを「イヤ」と思う感覚は誰しもにあるわけではない。
このような思考は別の話でもほとんど出てくるのですが、これは自分に嘘をつきたくないからではなくて、相手に対して嘘をついているということを不誠実に思っているからだと私は思っています。
人とのコミュニケーションでは、嘘をついて人に合わせる方が円滑に進むし、そうすることが相手に嫌な思いをさせない良い行いと思っている人間と、嘘をつかずに本心で接するのが誠実だと考える人間がいます。
彼女が卑屈になるのは、嘘をつかなければいけない現実ではなくて、本心で接することの誠実さが受け入れられず、自分でも貫き通せないからだと思います。
嘘つきは泥棒の始まりと言いながら、人は心にもないことや口に出したくもないことばかりやっている。
そういうインチキさを嫌う潔癖さ。
清楚を好むくせに、コミュニケーションは不誠実で成り立っている。
この不条理になぜみんな耐えられるのか。
疑問さえ持たないのか。
ライ麦畑に共通するような潔癖さと諦めを感じる話。
私たちは、決して刹那主義ではないけれども、あんまり遠くの山を指さして、あそこまで行けば見はらしがいい、と、それは、きっとその通りで、みじんも嘘のないことは、わかっているのだけれど、現在こんな烈しい腹痛を起こしているのに、その腹痛に対しては、見て見ぬふりをして、ただ、さあさあ、もう少しのがまんだ、あの山の頂上まで行けば、しめたものだ、とただ、そのことばかり教えている。
きっと、誰かが間違っている。
わるいのは、あなただ。
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いんちきがだいきらいなお話。
葉桜と魔笛
昔、朗読劇かなんかでこの話が読まれました。
そのときの衝撃。
悲しくて美しい女の心の叫び。
「葉桜と魔笛」という美しい言葉。
私はこのお話が大好きです。
みなと同じ春には散れずに、葉桜になってしまった悲しみ。
女に生まれながら一度も男と触れ合えなかった悲しみ。
姉さん、ばかにしないでね。
青春というものは、ずいぶん大事なものなのよ。
あたし、病気になってから、それが、はっきりわかって来たの。ひとりで、自分あての手紙なんか書いてるなんて、汚い。あさましい。ばかだ。
あたしは、ほんとうに男のかたと、大胆に遊べば、よかった。あたしのからだを、しっかり抱いてもらいたかった。
姉さん、あたしは今までいちども、恋人どころか、よその男のかたと話してみたこともなかった。姉さんだって、そうなのね。姉さん、あたしたち間違っていた。お悧巧すぎた。
あぁ、死ぬなんて、いやだ。
あたしの手が、指先が、髪が、可哀そう。
死ぬなんて、いやだ。いやだ。
あたしの手が、指先が、髪が、可哀そう。
自分で自分を大事にしても全く満たされないもの。 自分で大切に守ってきたものを奪われ汚される喜び、やわらかい体に触れる武骨な手や、細く冷たい女の身体とはちがう、筋肉が作る熱い身体に暖めてもらうとき万能感。大切に扱われたときの安心感。
それを一度も知らずに死んでしまうのは、生まれながらに箱庭にいれられたのと同じような気がします。
自分を大事にしようと思うなら、恋をして愛し愛されることだと思う。
自分でどれだけ髪や肌をケアしても愛されなければ、誰の目に触れることもなく散って踏まれて消える花と同じ。
皮膚と心
男は、吹出物など平気らしゅうございますが、女は、肌だけで生きて居るのでございますもの。
否定する女のひとは嘘つきだ。
(中略)
結婚の前の夜、または、なつかしくてならぬ人と五年ぶりに逢う直前などに、思わぬ醜怪の吹出物に見舞われたら、私ならば死ぬる。
家出して、堕落してやる。自殺する。
女は、一瞬一瞬間の、せめて美しさのよろこびだけで生きているのだもの。
このお話、女のいじらしさが出ててとてもかわいらしくほっこりします。
主人公は自分の容姿には自信はないけど、肌にだけは自信があった。
容姿が思わしくないため、結婚相手はバツイチで自分に自信がない男だった。夫はお金がないことや、初婚でないことを気にしていたが、主人公はそんなことはどうでも良かった。
ただ夫に自信を持ってほしいとは思っているものの、甘えたり頼ったりすることが出来ずにいました。
だけど、突然現れた吹出物のせいで女の中にたくさんの卑屈さが生まれてきます。
自分ではおぞましく二度と夫に会いたくないくらい気味悪く思っているのに、夫は気にせずに患部に薬を塗ってくれたり声をかけてくる。
みっともない二十八のおたふくが、甘えて泣いても、なんのいじらしさが在ろう、醜悪の限りとわかっていても、涙がどんどん沸いて出て、それによだれも出てしまって、私はちっともいいところが無い。
夫はその姿を見て「病院に行こう!」と言って仕事を休み、新聞の広告を調べ有名な皮膚科へ行くことを決めました。
「電車は、いや。」私は、結婚してはじめてそんな贅沢なわがままを言いました。
夫は「わかっているさ。」と明るい顔をして答え、車で病院に連れて行きます。
病院に行くと色んな病人が待合室にいるけれど、自分ほど症状がひどい人はいません。ここで診察を待つ間に女の心に、初めて夫が初婚でないことへの嫉妬が生まれます。
世の中には、まだまだ私の知らない、いやな地獄があったのですね。私は、生きてゆくのが、いやになりました。
そして診察を受けると、あっさりと治ると告げられます。
注射してもらうとすぐに手に出来た吹出物はきえていました。
「もう手のほうは、なおちゃった」
私は、なんども陽の光に両手をかざして、眺めました。
「うれしいか?」
そう言われて私は、恥ずかしく思いました。
最初のころとはうって変わり、可愛い少女のような仕草で終わります。
痴人の愛のナオミのように「あれ買ってよ」「こうしてよ」という甘えが一切出来ず、慕っているのにそれを表現することも出来ず、夫婦の仲は悪くはないけどなんだか他人行儀。
それが、この吹出物のおかげで一気に近くなっていくストーリー。
女の一番大事な「肌」を一緒に大事にしてくれた夫。
自分で止めようもない卑屈な嫉妬心を受け止めてくれた夫。
彼女の中にある、卑屈な「もうおばあちゃんだし」とか「こんなおたふくが」というのが、夫婦の毒になっていました。
それが皮膚に現れ、すっかり治るころには、夫婦の壁もなくなっていた・・・という話だと思います。
最初は外で素っ裸になって夫に吹出物を見てもらうのに恥じらいの欠片さえなかったのに、最後には治ってはしゃいでいる自分を優しくみつめる夫に照れちゃってるじゃないですか!
可愛らしい!!
この夫婦上手くいくわ~。
そのうち子どもとかに話すんだろうな、「かあちゃんなんか吹出物くらいでびーびー泣いてよぉ」とか言って。
太宰さんは女なのですか?と思うくらい、女が詰まった一冊です。
女性も男性もぜひ。
ああ、悲しいひとは、よく笑う。