深夜図書

書評と映画評が主な雑記ブログ。不定期に23:30更新しています。独断と偏見、ネタバレ必至ですので、お気をつけ下さいまし。なお、ブログ内の人物名は敬称略となっております。

自分のアタマで考えよう/ちきりん~素晴らしく楽しい思考の世界へ~

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≪内容≫

“おちゃらけ社会派”として超人気のブロガーが教える「自分だけの答え」の見つけ方。

 

これめちゃくちゃ耳が、目が痛い本です。

「考える」の基本がめちゃくちゃ高く感じます。

私はこれまで自分で考えて書評してきたつもりでしたが、ただ読んだ内容を自分の都合のよい形に変換しただけに過ぎない気がしました。

 

 

その話、ズレていない?

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 Aさん:「何回も契約更新を繰り返して、同じ職場で5年も働いているのに正社員になれず、有給休暇もボーナスももらえず、不安定な立場に置かれている人がいるのはおかしい。こんな非正規雇用契約は禁止すべきだ!」

 

Bさん:「でも、契約社員として一定期間だけ働きたい人も世の中にはたくさんいるんですよ。全員が全員、正社員になりたいわけではありません。働き方の多様性も確保する必要があります。」

 

Aさんの意見に対してBさんが反論していますが、二人の話している内容は合っているでしょうか?

 

Aさんが訴えているのは、正社員になりたい人を前提とした話です。

Bさんが反論しているのは、正社員になりたい人となりたくない人の話です。

 

一見ズレてなさそうに見えます(私には見えた)が、前提をBさんに刷りかえられちゃっていますよね。

Aさんからしたら「いや、それは分かっているよ。だからその中でも正社員になりたい人の話をしてるんじゃん」ってことになります。

 

こうやって考えると分かるけど、無意識でBさんのような反論をしていないだろうか?とギクっとしてしまいました。

 

私はブログを書く際に3つの見出しに沿って書いていますが、途中で「あれ?話がどんどん脱線していくな。最後まで読んで見出し読んだら意味分からないことになるよな・・・。」と思うことが大半です。

 

これって男女の話が噛み合わないがすごいいい例な気がします。

 

今更言われても…女性が昔のことを蒸し返してしまう理由って? - NAVER まとめ

 

簡単な例で、同棲しているカップルの話にしましょう。

家事は女性がやっています。

 

彼氏:「お~い、靴下落ちてるぞ~」

 

彼女:「は?」

 

彼氏:「いや・・靴下が・・・落ちてたから・・・」

 

彼女:「だから何?あんたなんかいつもほっぽってるじゃん。それを今まで私は何も言わずに洗濯してきたのに、たった一回私がほっぽっただけで偉そうに言わないでくれる?」

 

彼氏:「・・・なんかごめん。でもさ、何もそこまで言うことなくね?俺は別に落ちてたから言っただけじゃん。」

 

彼女:「何で言うの?別に洗濯は私がするんじゃん。あなたがするわけじゃないじゃん。」

 

彼氏:「じゃあ俺は何も言っちゃいけないのかよ!!」

 

彼女:「怒らないでよ!!大体こないだだって・・・(過去の話に突入)」

 

 

なぜ過去の話に突入するかというと、彼氏は「現在」を切り取って話していますが、彼女の「現在」は連続して繋がっているからです。

 

ここで彼氏は「靴下が洗濯かごに入っていなかった」ということを訴えています。

→洗濯ものは洗濯かごに入れるというルールについて話している。

 

彼女は「靴下を洗うのは自分なのだからあなたに言われる筋合いはない」と反論しています。

→洗濯かごに入れた後、洗濯ものは誰が洗うかの話をしている。

 

 

二人の論点がズレているから話は一向にまとまらず、どちらかが折れることで収束します。

なるべく論理的に話したいなぁと思うので、「あれ?なんか話したいことが散らばっちゃった」と思ったときは冷静に「論点はどこか」探してみようと思います。

 

あ~耳が(目が)いたい!!

 

知識を得ると思考は止まるか?

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冒頭に、わざわざ「自分の頭で」考えるという言い方をするのはなぜだろう、と書きました。一部の「知識」は「過去において、他の人がその人の頭で考えた結果」 です。

それを私たちは書籍や講義、報道などを通して学んでおり、自分の頭の中に知識として保存しています。なにかを考えろ、と言われたときにそれを頭の中から取り出してくるのは、「他人の思考を頭の中から取り出してくる行為」に他なりません。

 

 読書は果たして良いことか?

 この本は、有名な「読書は他人にものを考えてもらうことである」という言葉が出てくる本です。

 

私は読書がもし、私の思考を奪うとしても辞めないと思います。

まぁ現時点で奪われている感覚がないから言えることと思いますが、なぜかというと「知識」があるから「考える」ことができると思っているからです。

 

マスメディアがくれる情報を「そうなんだ!」と思ってしまうのは、知識がないからだと思います。

 

もし、「本日、また埼京線で痴漢が捕まりました。」というニュースが流れたとします。

痴漢された経験がない人、埼京線で痴漢に遭遇した人は「埼京線って怖いわぁ」となると思いますが、他の線で痴漢に遭遇した人は「ほんとうに埼京線だけが多いのだろうか?」と思うと思います。

これは経験の差です。

しかし、経験は誰もが出来ることじゃありません。

好き好んでPTSDになるかもしれない痴漢行為を受けたいなんて人はいないと思うし、もっと言うと戦争のことを考えるのに、戦争に参加したり戦争を起こすことは言語道断で出来ません。

そこで、経験出来ないことを知る為のツールとして本があると思うのです。

 

読書は他人に考えてもらうこと・・・っていう感覚が私にはちょっと分かりません。寧ろ逆に思っています。

他人が考えたことにどれだけついていけるか。なぜこういう発想になったのか?寧ろ疑問がつのるばかりです。

しかも読書といっても、どんな読書によると思いますが、ほとんどはその時の流行りだったり道徳だったりが反映されているので、物語でも歴史を知るのにも役立ちます。

 

ちきりんは「古典や名著を読むな」と言っているわけではありません。本来は、「書物や授業を通して先人のすばらしき思考の功績を知識として学び、さらにその上で自分の頭で考える」のが理想です。

(中略)

圧倒的なレベルの知識を目の前にしても考えることをやめないのが本来あるべき姿勢です。

 

 本書には思考を視覚化してみたり、データをとことん追い詰めてみたり、もうここまでやるか!!ってほど考えています。

これが「考える」ってことの最低基準だとしたら、今までの私って一体・・・と絶望してしまうくらいです。

それほど思い当たるところがあったってことなのですが・・・。

悲しいけど、早めに知ることが出来て良かったって思いました。

 

もしあなたが考えることが好きならば、それが本当に「考えている」かどうか早めに気付いた方が、もっと人生は難解でわくわくしてくることでしょう。

 人生は有限なんですよねぇ。。