深夜図書

不定期に23:30更新しています。独断と偏見、ネタバレ必至ですので、お気をつけ下さいまし。なお、ブログ内の人物名は敬称略となっております。

ぼくのメジャースプーン/辻村深月~善悪のさじ加減について考えてみよう~

≪内容≫

ぼくらを襲った事件はテレビのニュースよりもっとずっとどうしようもなくひどかった――。ある日、学校で起きた陰惨な事件。ぼくの幼なじみ、ふみちゃんはショックのあまり心を閉ざし、言葉を失った。彼女のため、犯人に対してぼくだけにできることがある。チャンスは本当に1度だけ。これはぼくの闘いだ。

 

 

 子どもたちは夜と遊ぶで出てきた

どうして蠅やアブラムシを殺してもいいのに、蝶やとんぼは殺しちゃいけないの?

という問いが掘り下げられています。

そして、復讐とは?悪とは?愛とは?を考えていく話。

 

突如現れた悪意の塊に小学生の僕はどう立ち向かえばいいのか。

 

その悪意によって大切な人が壊されてしまったとき、僕は何をすることができるのか。

 

あなたなら、どうする?

 

 

 

 

大切なものを壊されたら

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A:その犯人と友達になる。

B:何もしないで忘れる努力をする。

C:犯人を同じ目に遭わせる。

 

あなたならどうする?

私はBかCを選ぶだろうな、と思います。

自分で折り合いをつけられるようなものだったり、自分自身が傷つけられた場合ならBでなるべく関わらなく生きて行きたい。

 

だけど、もし壊されたのが自分ではなくて、自分の「大切な人」だったら。

私はCを選ぶんじゃないかな、って思ってしまう。

「大切な人」のために復讐するのではなくて、自分のためにね。

それで人生を棒に振るんだよ、って説得は他に大切なものがまだある場合には有効だと思うけど、その人と生きることで自分が成り立っていたなら、その人を通して希望を見ていたなら。

 

Cの意見を言った男子学生の意見が私の中にもあります。

彼によれば、どうしようもなく最低な犯人に馬鹿にされたという事実は、自分のために一生懸命になった人間がいること、自分がそれぐらい誰かにとってのかけがえのない存在であることを思い出すことでしか消せないんだそうです。

自分が犯人に馬鹿にされた悔しさと、そのために誰かが犯人を痛めつけたことに対する自責の念とでは、後の場合の方が、自分に自信を持てる分ずっと気持ちに余裕があっていいと主張していました 

 この考えは映画/怒りの沖縄編で感じたことと同じです。

【映画】怒り~彼女の名誉と誇りを守るために~ - 深夜図書

 

この考えを証明するのに、相手を殺したりしなくてもいい。

だけど、てっとり早く伝えるには犯人が殺された方が良い。

人の気持ちを復讐の度合で計るのはおかしな話かもしれないけれど、自分のために誰かが人を殺すっていう限界を越えた行動を起こしたっていう事実は一番強い励ましになるような気がします。

 

だけど、もしも。

もしも自分が壊された立場で、恋人や両親が犯人を殺してしまったら。

私は自分が犯人に馬鹿にされた悔しさよりも、そのために誰かが犯人を痛めつけたことに対するやるせなさで気がおかしくなってしまうような気がします。

 

自分が壊されたなら、何も考えられないかもしれないけど、それでも自分の世話をしてくれる、声をかけてくれる人がいるってだけで、自分のために動いてくれる人がいることが分かるから。

それだけで救われる気がする。

 

答えの出ない問題です。

時と場合、そのときの精神状態、年齢、状況によって答えは変わっていくと思います。だけど、Cの考えを幼稚だとか無意味だとは思いません。

 

大切な人が壊されたら、とても悲しいし、怒りはおさまるものじゃないでしょうし、何かしたいと、救いたいと、思うのが人の心だと思うから。

 

 

 

ぼくが出した答え:D

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せんせい、人間は身勝手で、絶対に、誰か他人のために泣いたりできないんだって本当ですか

 僕が出した答えはこの最後に似ています。

 この漫画は双子の姉妹の一人が殺され、残ったもう一人が犯人を追う作品です。この作品ではうさぎではなく人間が殺されていますが、日本の死刑制度では一人では死刑にならず、しかも犯人は覚せい剤を使用していたことから責任能力がないとされ、無罪の判決を言い渡されます。

 

この作品もとても胸が苦しいです。

 

私にとって何よりも大切なもの。

それは世の中にとって、命ではなくて器物だった。

失われた清らかな命より現存している悪意に塗れた命の方が大切らしい。

 

あの日、自分が風邪を引かなければふみちゃんは第一発見者にならずに済んだのに。僕のせいで、ふみちゃんは壊されてしまった。

ふみちゃんが好きだから、っていう理由じゃなくて、自分のせいでふみちゃんが遠くに行ってしまったことに耐えられないのだと秋先生に訴える僕。

馬鹿ですね。

責任を感じるから、自分のためにその人間が必要だから、その人が悲しいことが嫌だから。そうやって、「自分のため」の気持ちで結びつき、相手に執着する。

その気持ちを、人はそれでも愛と呼ぶんです 

 

「人間は身勝手で、絶対に、誰か他人のために泣いたりできない」っていうのもその通りなんだと思います。

 

だってニュースでいじめで自殺してしまった子を見ても、虐待で殺されてしまった話を聞いても、遠い国で戦争が起きて子供が死んでも、そのたびに泣いたりしないでしょう?

悲しい、なんでこんなことをするの。

そういう気持ちにはなっても、泣いたりしない。

嫌なら目をそらすこと、テレビを消すこと、好きな情報だけを選んでしまえる。

 

だけど半面、そらしたくっても、そらせないくらい近くにいて、大切で大好きなもの、失いたくないものも持っている。

そのために泣くことが、自分が失うものの大きさや不安や悲しみで泣くのだとしても。その涙は、大切なものがあるからこそ溢れてくる。

 

大好きな人が傷付きませんように、笑って過ごせますように、悲しい気持ちになりませんように。

なんでそう思うかって、大好きな人の悲しい顔を自分が見たくないから。

始まりは何でも「自分のため」だけど、結果としてお互いが満たされるなら、それは愛なんだと思いました。

結果として相手を縛りつけたりするのはただの執着だけど、お互いが快適に過ごせるための執着を守ると表現したり愛と表現するのなら、それはすごく、すごくそうだと思う。

 

 

 

ぼくのメジャースプーン

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 正しい道具を使って正しい分量をはかる。

ああでもない、こうでもないと言いながら、さじ加減を見ながら、どうにかお菓子を膨らませようと必死です

 正しい道具を使って正しい分量をはかる。

正しいことを知る、ということ。

正しい分量を身につける、ということ。

 

人生において大切なことですよね。

正しさが人によって違うのは、一つの問題に対してA~Dの答えが出たことでも分かりますが、根本の「相手を思う気持ち」は同じです。

 

正しい道具は、作るお菓子によって異なります。

正しい分量もまた同じく。

 

レシピも基本があって応用があり、応用からたくさんのケーキやら焼き菓子やらが生まれました。

だから基本というのは全てのお菓子作りの根底です。

根本はみんな同じです。

 

私たちヒトの作りは同じだけど、善悪のさじ加減は人によって異なります。

出会う人によってさじ加減を変えてみたりして、失敗しながらも試行錯誤して、美味しいお菓子を作っていきます。

美味しいお菓子になったヒトは、人を幸せにします。

失敗しながらも試行錯誤するヒトは、人を勇気づけます。

全てを放り出して分量を考えないヒトは、人を悲しませます。

 

 

人の悪意をどうにかしようとか、反省させようとか、改心させようとか、そんなことはきっと出来ません。

出来るとしたら、それは本人だけであって、そのきっかけになることが他人の優しさだとしても結果論でしか得られない証明だと思うのです。

 

自分がどんなに正しい分量を知り、正しい道具を使っていても、理不尽な悪意に打ちのめされることはあり得ます。

善き人にも災難は訪れます。

 

そのことがどんなに理不尽でも、やるせなくても、やってくる。

そんなとき、正しさは何の役にも立たないかもしれない。

悪意には悪意で立ち向かうべきだと思うかもしれない。

 

ふみちゃんの非力なナイトはずっとずっと一人きりで戦ってきました。

まだ小学生なのに。

 

だけど"不思議な力を持つぼく"だから出来ることがあるんじゃなくて、ふみちゃんがぼくにとっての大切な人だから出来ることがあるのだと思います。

不思議な力がなくても、心からの言葉があれば人を勇気づけることが出来る。