深夜図書

毎日23:30更新の書評ブログです。独断と偏見、ネタバレ必至ですので、お気をつけ下さいまし。なお、ブログ内の人物名は敬称略となっております。

授乳/村田沙耶香~一つの世界に自分を委ねることはとてもグロテスク~

≪内容≫

受験を控えた私の元にやってきた家庭教師の「先生」。授業は週に2回。火曜に数学、金曜に英語。私を苛立たせる母と思春期の女の子を逆上させる要素を少しだけ持つ父。その家の中で私と先生は何かを共有し、この部屋だけの特別な空気を閉じ込めたはずだった。「―ねえ、ゲームしようよ」。表題作他2編。

 

 

 先生と私。

私とヌイグルミ。

私と同い年の男と正男お姉ちゃん。

 

閉じ込められた世界と、自分で作った世界と、誰かと作り上げた世界は、閉鎖的で現実とは繋がっていない。

 

主観と客観。

私と世間。

正常と異常。

男と女。

 

 

授乳

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私が飲んでるこのコーヒーも、母がお湯を計量カップで、インスタントの粉を計量スプーンで、きちっと正確な分量を計ったしろものだ。

私はそれをすすりながら、不味くもないけど美味しくもねえな、といつも通りのことを思った。 

 美味しいとか美味しくないとかって温度が関係していて。

この家にはその温度が欠けているのだと思いました。

 

よく「あったかい家」って表現がありますよね。

友だちの家に遊びに行ったとき、友だちのお母さんが「こら!テレビばっか見てんじゃないの!」って言ったり、お父さんや兄弟がいたりして、「お兄ちゃんそれ最後のからあげ!とんないでよ!」「早いもん勝ちだもんねー!」みたいな会話がとびかってたり。

柱に身長が書いてあったり、勉強机が意味不明なシールでめちゃくちゃに飾られていたり。

 

手作りのものにあったかさを感じるのは、そこに温度があるからだと思うんです。

自分のためだけに作られた不格好な体操着入れだったり、大きさの違うおにぎりだったり。

 

父がいるから自分の世界に閉じこもれるのに、父を嫌う母。

それを自分にも強いる母。

母に興味のない父。

 

そして新しく来た家庭教師の先生は、猫のように捨てられたり拾われたりしながらもお母さんの元を離れない。

そのことを知った私は、母が一番最初にする子供への愛の証である授乳を先生にしてみようと考える。

 

先生と私の授乳ごっこは母の突然の襲来によって幕を閉じるのですが、このときの母の行為を私は「母がにょきにょきと生えてきた」という表現をしています。

 

想像ですが、この一件によってこの家族は温度を取り戻していくんじゃないかな・・・と思いました。

 

逃げ続ける母に挑む娘。

 

 

 

コイビト

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あたしは誰とも喧嘩をしたことがない。親とも喧嘩をしない。父親と母親は、反抗期がなかったあたしを、素直でいい子だといってうれしがる。だってあたしは自分とホシオにしか興味がないのだ。

あたしの世界にはホシオしかいない。

あたしはホシオにしか何かを求めない。

反抗や憎しみなど感じる必要はないし、もしそんな感情が生まれるとしたら自分かホシオに対してだけだろうと、ずっとそう思ってきた。

 

それがとてもグロテスクなことだということを、美佐子を見ていて初めて気づいたのだ。 

 ホシオというぬいぐるみにしか興味のないあたし。

そんなあたしの前に現れたのは同じくぬいぐるみ兼恋人のムータにしか興味のない美佐子。

 

自分では気付かなかったけれど、客観的に自分みたいな美佐子を見たあたしは不安を覚える。

 

 

他人に興味ないって結構寂しいと思うんですよ。

興味ないというか執着出来ないというか・・・。なんていうんですかね。上手く言えない、それに見合う言葉が思い付かないんですが、反抗や憎しみ、愛したい、愛されたい、自分を知って欲しい、相手を知りたい・・・とかそういった感情があるから人間ってめんどくさいけど愛すべき生き物だと思うんです。

 

だからそういう部分も「だってめんどくさいじゃん?」ってなっちゃったら、死ぬわけじゃないし、趣味や生きがいを他に見つけて生きることも楽しいだろうけど、どこか寂しいな、と思うんです。

 

あたしはホシオを美佐子の前で投げ捨てるけど、美佐子は形を変えてまた生えてくるからそんなことしても無駄だよ、と言います。

 

そうかもしれない。

だって人生山あり谷あり。閉じこもりたいときってある。

誰も彼もいない場所にいきたいときがある。

だから、それも間違っていないし、ホシオを捨ててお腹いっぱい食べて現実に向かおうとするあたしも間違っていない。

 

明るい人間は一生明るくいなきゃいけないわけないし、暗い人間が明るくなったって何にもおかしくない。

 

しかし。

一つの世界だけに自分を委ねること、それはとてもグロテスクなことなのかもしれない。

 

 

御伽の部屋

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無駄を極端に省いたシンプルな対応には、想像の余地がいっぱい残っており、あたしはそこに何でも好きな絵をかくことが出来た。 

 この言葉がすごく好きです。

この感覚は小説を読むときに一番感じます。

あまりに熱がありすぎたり、作者の読者に対して「こう思って欲しい!」っていう感情が見えると、とっても窮屈になる。

 

そうなると、他者が絶対に入り込んでしまって自分が分からなくなってしまう。

 

「察してよ」という言葉があるように、生活の中で好きなように生きるのは難しい。いつも他者がいて、他者から「こういう返答をしてほしい」「こういう励ましが欲しい」「こんな子になってほしい」というような無言の要請があちらこちらに飛び交っている。

 

自分の真っ白なキャンバスが、どんどん他人からのお願いだったり希望だったりで埋め尽くされていく。

世間体、恥、プライド、そういうものはどんどんキャンバスを黒くしていく。

 

皆がどんどん「ごっこ遊び」をやめて「ゲンジツ」に移行していく。そんな中御伽の部屋に留まり続ける主人公なのだった。

 

 

村田沙耶香さんがちょっと変わった作品を書くのは分かっていたんですが、「コンビニ人間」から入ったので割と笑える感じなのかな、って思ってたんですが全然笑えなかったです。

これは土の中の子供/中村文則を読んだときの感覚に近かったです。

イミワカラン・・・でもなんか気になる・・・なんなの?みたいな。

 ハッピーエンドなのかも分からないし、ハッピーエンドが良いことなのかも分からない。