深夜図書

書評と映画評が主な雑記ブログ。不定期に23:30更新しています。独断と偏見、ネタバレ必至ですので、お気をつけ下さいまし。なお、ブログ内の人物名は敬称略となっております。

カント 美と倫理とのはざまで/熊野 純彦~美しい人って自然な人のことを言う~

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≪内容≫

生の目的とは?世界が存在する意味とは?カントの批判哲学が最後に辿りついた第三の書『判断力批判』から、その世界像を読み解く鮮烈な論考。

 

パラパラ~っとめくって目についたのは

芸術とは「天才」の技術である

 

それだけで読みたい!と手に取ってしまいました。

カントは名前だけ知っていて読んだことは一切ないのに。

 

芸術って結局何なの?っていう気持ちも本書を読んで少し噛み砕けた気がするし、私がどうして過剰な化粧や不自然な装飾に「美」を見出せないのかも分かりました。

 

12章からなる本書の中から、7章の「芸術とは「天才」の技術である」に重点を置いて書いていきます。

 

美しいものは自然でなければならない

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技巧が自然を上まわることはありうる。

たとえば彫刻された鳥がほんとうの鳥よりも美しく、絹で織られたバラの深紅が野生の花弁を凌ぐこともありうるだろう。

それでもなお人工の美は自然の美に及ばない。

 

 第7章/芸術とは「天才」の技術であるでは美を二つに分けている。

 

・自然美・・・美しい事物

・芸術美・・・或る事物についての美しい表象にほかならない

 

たとえばとても鳥のさえずりの真似を上手く出来る人がいるとする。

その人物は、森の奥から姿を見せずに囀ってみせる。

とても自然なので、聞いた人間はうっとりとさえずりに聞き入る。

しかし、森から鳥のさえずりを真似していた人間が出てきて種明かしをすると、それまで聞き入っていた人間は興醒めしてしまう。

 

見とれていたものが精巧な造花だったとき、木彫りの鳥であったとき、気付いた瞬間に「なぁ~んだ・・・」という気持ちになるのは想像し易いし、多かれ少なかれ誰しもにあると思います。

 

カントはこう言います。

 

「私たちが美しいものに対して、そのものとして直接的な関心を懐くことができるために、その美しいものは自然でなければならない。」

 

あるいは、とカントは書きそえた。

 

「私たちによって自然と見なされるものでなければならないのである」

 

 

技巧が芸術となるためには

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「いいかえるならば、芸術は、それがたしかに技巧として意識されていながらも、自然としてみとめられうるものでなければならないのである」。 

 

美とは自然のことであり、芸術とは自然の表象に過ぎない。

どんなに自然に近い鳥のさえずりの真似も、精巧な造化も、精密な木彫りの鳥も、それが自然のものでないと分かった瞬間に「騙し」や「欺瞞」に変わる。

そうなれば人の関心は一気に冷めていく。

 

しかし芸術というものは今日もなお世界のいたるところで、その美しさを披露している。それを観に行く人間がいて、価値を与える人間がいて、そこに何かを求める人間や、何かを見出す人間もいる。

 

人間は自然を作れない。

不自然な美である芸術を愛する理由とは何か。

 

だからこそ技巧が芸術となるのは「それが技巧であることを私たちが意識していながら、その技巧が私たちにはそれでも自然のようにみえるばあい」だけなのである。

 

絵だと分かっていながら、工作だと認識していながらも、そこにあるものが自然に見える。

 

これはとても興味深いと思いました。

どこまでが自然でどこからが違和感になるのか、言葉では分かりません。

 

こないだのミュシャ展の絵はもちろん絵ですし、空に人がいたりして、自然かと言われると自然じゃないですが、違和感があるかと言われるとない。

 

芸術は自然であることもできず、自然でないことも許されない。

それでは技巧とは?

技巧は不自然の象徴であり、自然でないことの証明ではないのか。

 

芸術とは天才の技術である

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技巧であるならば、それはすべて「規則」を前提とする。その規則が基礎に置かれなければ、技巧の産物は技巧の所産として表象されることができない。

 

いっぽう芸術の概念は、その作品にかかわる判断がなんらかの「概念」を根底根拠とすること、なんらかの規則から導出されることを許容しない。

 

かくして芸術には、自身の規則をみずからつくり出すことができない。とはいえたほうでは、「先行する規則」 のみが或る産物を技巧の所産として可能にしている。

「それゆえ、主観のうちにある自然」つまり天才(Genie)が「(主観のさまざまな能力の調和をつうじて)技巧に規則を与えなければならない」。

かくてまた、芸術はひたすら「天才の産物」としてだけ可能なものなのである(ebd.)。

 

 

つまり芸術は技巧によって創られるが規則を創りだすことが出来ない。

規則がなければ技巧にはならない。

よって芸術と呼べない。

その規則を唯一創り出せるのが天才ということですね。

 

その規則を説明することは不可能で、もし説明がつくならば、それは「概念」に由来するものと書かれています。

 

自然が天才をつうじて「知識ではなく技巧に規則を指令する」。 

 

ゆえに芸術には「方法」はなく、あるのは「手法」だけである。

天才は自然をつうじて規則に従い制作するが、規則そのものは、いつでも完成された芸術作品の中からしか見つけることが出来ない。

 

正直、私は天才に出会ったことがないのでよく分かりません。ですが、アートなり音楽なり天才と呼ばれる人物はいるわけで。

どこから天才で何が美の基準なのか?という疑問に対して、新たな考えが手に入ったなあと思いました。

 

本書を読んでから、過剰な化粧や不自然な装飾に「美」を見出せないのは、それがやはり「自然」ではないからなのだと思いました。

 

「私たちが美しいものに対して、そのものとして直接的な関心を懐くことができるために、その美しいものは自然でなければならない。」 

 

美しい人はたくさんいる。

だけど、そこに何の疑いも持たずに関心を抱くために、あるいは心から感激するためには自然というのが鍵だったんだなぁと。

 

見た目だけじゃなくて、嘘くさい人や何か盛ってるなぁって人が、どんなに優しくていい人でも、どこか引っかかってしまうのも、自然じゃないからそこに「騙し」や「欺瞞」を見てしまうのかもしれない。

 

芸術だけじゃなく、人間の美にも直結する話だなぁと思いました。

自然が一番。さっぽろ一番塩味が一番おいしい。