深夜図書

書評と映画評が主な雑記ブログ。不定期に23:30更新しています。独断と偏見、ネタバレ必至ですので、お気をつけ下さいまし。なお、ブログ内の人物名は敬称略となっております。

タダイマトビラ/村田沙耶香~個を捨てて種として生きるトビラ~

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≪内容≫

母性に倦んだ母親のもとで育った少女・恵奈は、「カゾクヨナニー」という密やかな行為で、抑えきれない「家族欲」を解消していた。高校に入り、家を逃れて恋人と同棲を始めたが、お互いを家族欲の対象に貶め合う生活は恵奈にはおぞましい。人が帰る所は本当に家族なのだろうか? 「おかえり」の懐かしい声のするドアを求め、人間の想像力の向こう側まで疾走する自分探しの物語。

 

人間の想像力の向こう側まで疾走する自分探しの物語、とは言い得て妙。

まさしく向こう側まで行ってます。

すごすぎる。発想力。

 

カゾクヨナニー

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カゾクヨナニーも、「脳を騙す」というのがポイントなのだ。事実はどうあれ、普通の家族に包まれて、子供が育つのに必要な愛情が与えられている、というふうに脳を騙すことができれば、実際の親の愛情は必要ない。

 

食べ物はいくら脳を騙しても実際に栄養をとらなければ死んでしまうが、形のない愛情という精神の食事に関しては、脳さえ騙せば問題ない。 

 

恵奈の母親からは愛情は湧き出てこない。

子供を産んだら母性が湧き出るとか、当たり前に子供に愛情を与えることなんてことは出来ない。

あくまで義務として家事を行い、恵奈と弟を育てるだけ。

 

恵奈は必死に母からの愛を求める弟をバカだなぁと思い、自分の脳を騙すことで家族からの愛情を受けているのだと自分に言い聞かせる。

 

それがカゾクヨナニーである。

自分の部屋のカーテンを相手に、家族欲を処理しているのだ。

 

恵奈は「本当の場所」を探す。

生まれ落ちた家は「本当の居場所」ではないし、「本当の家族」ではない。

今は「借り暮らし」状態なのであるという。

 

そして恵奈はあともう少しで「家族」が手に入るところで気付くのだった。

 

 

家族というシステム

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私はニナオを使って、心の中の「本当のドア」の向こう側にある理想の家族を、何度も愛撫した。

セイヨナニーをする人たちと同じように蹲り、勃起したペニスを擦するように脳の中の理想を摩擦し続けた。

何度も何度も繰り返してきた。

 

まるで罰をうけるように今、自分がそうされていた。

浩平は彼の脳の中に引きずり込んだ私を気持ちよさそうにしごきながら、幸福そうに笑っている。 

 

 ニナオ=カーテンです。

 

・・・絶句しましたね。

これって真理だと思うんですよ。

というのも、彼は他人であって恵奈のいうOOナニーという、欲望を処理するという思考が根本にある内は、処理の相手という考えは正しい気がします。

 

家族というのはある意味で無償の愛の源のようなものです。

根拠もなく、ただ血の繋がりだけで全信頼を得られるし、預けられる存在なのです。

 

この感覚に対して異議がある場合は、宗教が違うという感覚に近いような気がして、その根本を擦り合わせるのはかなり無理が生じる気がします。

 

ほとんど「~気がします」という発言になってしまうのは、全く私の中でデータがないので想像のみで考えているためです。

それくらい私にとって天地がひっくり返るような発想です。

 

別に親になったら強制的に母性が出たり、親という別の生き物になるという風に考えているわけではないし、愛せない親、愛されない子供がいることも現実に分かっているのですが・・・。

 

私は、家族が心配したり、恋人と触れ合うことは欲望の処理ではなくて、愛ゆえにだと思っているんですね。

じゃあそのってなんなの?ってなると、「上手く言えないけれど欲望ではない」という感覚です。

 

なんだろう?

例えばそれが家族欲を満たす代替行為だとしても、それはそれでいいかな。と思ってしまうというか。

そこはグレーゾーンでもいいかなぁというか。

 

たぶん、「罰を受けるように」と感じているということは、恵奈はその行為が虚しいんだということをどこかで感じていたんだろうな、と思います。

村田さん自身はとてもほがらかな家庭で育ったとインタビューで答えているので、どうしてこういう視点を持てたのか、とても気になってしまいます。

 

生命体としてのヒト

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私たちは繋がる命の粒なのだ。

寄り添っては繁殖し、増殖していく。家族という区切りなど必要ない。ただ、繋がって生命を未来へと運んでいく。

 

何が困るって正論なんですよね。

おかしくないんですよ。

 

確かに私たちは取って替わってるだけなんですよ、ある意味で。

神の視点なり自然から見れば、人間という記号なだけです。

人間たちが勝手に社会を作って、最小限の集団として家族システムを造り上げただけです。

そこに後から「家族ってすばらしい」「家族は守るものだ」「一夫多妻制」とか意味付けなり、根拠なり、理想なりを勝手に付け足していったとも考えられる。

 

だから間違っていない。

もし、自分の彼女がこんなこと言い出したら否定も出来ないし、心からの肯定も出来ない。

彼女じゃなく兄弟や家族だとしても。

 

ちょっと私も思うことがあって。

芸能人で美人な女性が「何度も浮気される」とか、それがきっかけで男性不信になったり、男性問題だけじゃなくて騙されやすい人が人間不信になる、という話を聞くたびに「どうして何度も浮気されるのに付き合うことを止めないんだろう?」と思ってしまうのです。

 

自分が傷付くのにどうして?

どうして恋人や家族が必要なの?なんで?

っていう考えが私の中にはあります。

 

そしてこの考えがとても虚しいとも思っています。

 

恵奈は振り切って人間の向こう側まで行きましたけど、私は取って変わる一時の存在だとしても、やっぱり誰か一人と手を繋ぎたいなぁと思うのです。

大きく見れば、結婚しようが恋人いようが家族があろうが、なんてことない問題です。だけどそこに存在している「私」としては、意味なんてなくても欲しいのです。

 

恵奈も欲しかったからカゾクヨナニーを始めたんだと思うし、それが得られないと思ったから向こう側まで行ったのだと思うので、結局繋がる命の粒でしかないとしても、帰属できる場所というのは必要なのだと思います。

 

「ただいま」ってそう考えると帰る場所があるから言える言葉なんですよね。

理解に苦しむけど、苦しむのが好きだったりするのでした。