≪内容≫
暗く重たい雨雲をくぐり抜け、飛行機がハンブルク空港に着陸すると、天井のスピーカーから小さな音でビートルズの『ノルウェイの森』が流れ出した。僕は一九六九年、もうすぐ二十歳になろうとする秋のできごとを思い出し、激しく混乱し、動揺していた。限りない喪失と再生を描き新境地を拓いた長編小説。
1969年ってきっと特別だったんだろうなぁと思います。69sixtynine/村上龍や【映画】無伴奏も69年、60年代末が舞台になっています。
私がこの作品を読んで思い出したのはこのこと。
遺伝でなくても、周りに自殺者が多い人っているんですよね。
まるで本作の主人公・ワタナベのように。
100%の恋愛小説ではない
この小説を100%の恋愛小説と呼ぶなら、生きている私たちの恋愛が恋愛の真似ごとであり、恋愛でないと言うようなものじゃないか?と思うのですが、どうでしょう?
村上春樹の小説は今まで読んだどの作品にも恋愛要素は感じられない。
個人と個人の物語であって、付き合おうが、そういう行為をしようが、どこまでも個人なのだという感じがあります。
本作の考察を私なりにしてみたいと思います。
本作は主人公・ワタナベをフラットな立場に置くとして、精神的に脆い人物(死者)として、キズキ・直子・ハツミ、精神的に強い人物(生者)として、緑・永沢・(レイコ)と私は考えます。
ワタナベというのは、丁度真ん中にいるような人物で、いわば空白(ブランク)です。どちらにも染まれる。
言い換えればどちらの人間とも上手くやれる存在です。
キズキは自分の弱さを他人に見せることが出来ない弱さを持っていたし、直子は姉が自死しており、その次にキズキが自死しているので常に死が身近にあった、ハツミに関しては詳細が分からないのですが、直子の姉のような自死のように思います。ある日ぷつんと回路が途切れてしまったような。
緑は母や父が病院で死に向かう経過をずっと見てきました。そういう意味では死が身近にありました。だけど、彼女はオシャレよりも料理器具を買う方にお金をかけたり、性の知識への好奇心が人一倍あったりと、生きることに対してかなり肯定的です。
レイコは、直子が療養する寮にいた先輩なので、精神的に弱い部分はあると思いますが、その弱さより生への欲が強かったように思います。
彼女が精神を壊した原因である様々な事柄はすべて音楽にあります。
しかし、彼女はその音楽から一切逃げようとはしない。ピアノがないならギターで奏で始める。ちょっとYOSHIKI的なものを感じますね。
逃げない強さを感じます。
永沢に関しては、圧倒的に強者です。
人を強い、弱いで分けようとするとき、その基準はどこまで自分本位になれるかということだと思います。
集団より個人としての意識が強いのは強者の証だと思っています。
永沢はこの個人としての意識がワタナベにもあると言っています。
私もそう思います。
だからワタナベは死が自分を取り囲んでも、生者の手を掴むことが出来るのです。
ここで自分本位というものに関して、思うところがあります。
自分本位という点では、キズキ・直子・ハツミの方が強いのです。他人を受け入れる余裕がないので、どうしても主観的な考えだけが強くなってしまう。
対して緑・永沢・(レイコ)、そしてワタナベは、自分は誰といても、誰を受け入れても自分なんだという確固たるモノを持っているように思います。
寛容であり、わがままであり、自分本位です。
だけどそこはお互い様でしょっていう感じなのです。
ある意味で孤独、冷たい、という印象もあるでしょう。
結局のところ、どっちが幸せだとか、どっちがイイとかそういうものではありません。キズキ達は死んで、ワタナベ達は生きている。
それだけのことなのです。
嘘をつくこと、正直に話すこと
直子たちの療養施設では「正直に話すこと」が条件でした。
そして、ワタナベは最後までおそらく正直に話していたと思います。
だけど、最後に緑と布団に入っているときに嘘をつく。
自分の凸を緑が触っているときに「直子の手とは違うな~」とか思っていたら緑に「他の女の子のことを考えているでしょ」と言われてしまう。
私はこのシーンがなんだか妙に生々しいというか、本作の中でやっと血が通った瞬間のように感じられたのですが、誰か同じように感じた人はいませんでしょうか。
ワタナベはこのシーンに至るまで緑に対して正直で、それゆえに彼女を傷付けていました。
例)
緑が拗ねても直子のことで頭がいっぱいで追いかけない。
緑が彼氏と別れたと言ったら「なんで?」と聞いて怒らせる。
引っ越しして連絡しなかったため緑を怒らせる。
なんでもない会話のふしぶしで「そんな言い方ないでしょ」と言われている。
などなど・・・。
正直でいることが他人を傷付けないなら、彼は確かに人を傷付けてはいない。
嘘をついていないから。
だけど、このシーンでは明らかに緑を傷付けないために「考えてないよ」と嘘をついている。
その後、ワタナベはレイコさんにこんな手紙を書いています。
(前略)
決して言いわけをするつもりではありませんが、僕は僕なりに誠実に生きてきたつもりだし、誰に対しても嘘はつきませんでした。誰かを傷つけたりしないようにずっと注意してきました。それなのにどうしてこんな迷宮のようなところに放り込まれてしまったのか、僕にはさっぱりわけがわからないのです。
誰に対しても嘘はつきませんでした。
誰かを傷つけたりしないようにずっと注意してきました。
↑
この二点に全く適用していないのが緑です。
彼女はワタナベに嘘をつかれているし、ワタナベに散々振り回されています。
そして緑は生者なのです。
ワタナベが「僕は僕なりに誠実に生きてきたつもりだし、誰に対しても嘘はつきませんでした。誰かを傷つけたりしないようにずっと注意してきました。」という相手はみんな死んでいます。
つまり、誰にも嘘をつかず、誰も傷つけずに注意しながら生きていくというのは無理なのです。
だけどその無理をしてしまうのが、キズキ・直子・ハツミであり、ある意味ワタナベでした。
ワタナベはその無理をしながら、また緑のような相手には無意識に嘘をつき、傷付けてきたから生きてこれたのだと思います。
この緑への行為こそが「甘え」だと思うのです。
誰かに甘えられることも強さの一つです。
そして、甘える、甘えられるという行為は両者がいて成り立つ行為なのです。
一人ではできないこと。
なぜワタナベが緑に嘘をついたのか。
ワタナベは緑に直子の名前は言ってはいないものの、想っている女性がいることを何度も告げています。
なので、このタイミングで直子のことを考えていたと言っても裏切りでも騙しでもなく、ただの事実にしかならないはずです。
だけど、彼が嘘をついたのは「緑に嫌われたくない」と「緑を悲しませたくない」という感情があったからだと思うのです。
うまくまとめられませんが、生きるってびっくりするくらい矛盾だらけだと思うんです。その矛盾を受け入れられないと生きるのは本当に困難なことのように思います。
私は嘘に対して潔癖のきらいがありますが、やはり正しいことだけでは生きていけないなと思うことがたくさんあります。
意味のない嘘はやはり嫌いですが、なんというかそういう狡さとか弱さとか、そういうものもあるのだと、受け止めていかなきゃ生きていけないです。
なるべく正直に生きて行きたいけれど、それが誰も傷付けずに誠実に生きるってことなのかというと違う気がする。
こうすれば絶対に誰も傷付けない!なんて絶対法はなくて、状況も常に変化していってる中で生きているのだから、誰に対しても~なんてことは自分の首を絞めるだけなのだと思いました。
だって結局のところ、「僕は僕なりに誠実に生きてきたつもりだし、誰に対しても嘘はつきませんでした。誰かを傷つけたりしないようにずっと注意してきました。」なんてのは自己満足にしか過ぎないんだから。
本作はとても奇妙な人間関係になっていると思っていて、それは大体が三人で動いているというところにあります。
キズキと直子とワタナベ。永沢とハツミとワタナベ。直子とレイコとワタナベ。
そして例外的に終始二人なのが緑とワタナベ。
キズキと直子、永沢とハツミ、というカップルにちょこんといるワタナベ。
どう考えてもおかしくないですか?
普通カップル同士で食事したり、まぁ二人になりたいと思うものではないですか?
それなのに、キズキと直子、永沢とハツミ、どちらもワタナベがいた方がいいといいます。
レイコとワタナベは二人でも話せるので、この二人は直子の母と父、姉と兄みたいな感覚でした。
愛していながら、相手と一対一で向き合えなかったという意味なのかな・・・と思いながら読んでいました。
向き合えないなら愛じゃないって言うんじゃなくて、愛してるから向き合えない、傷付けたくないから向き合えないっていうのがあるんじゃないかなぁ・・・と。
喪失の物語。
村上作品はいつも誰かが誰かを失いますね。
私はいつも羊をめぐる冒険/村上春樹の「それはあなたが自分自身の半分でしか生きてないからよ」を思い出します。
半分というのは、生死だったり表裏だったりすると思うのですが、それは可能性でもあるんじゃないかなと思います。
主観だけで生きると見えないもの、主観と客観の両方を持ってこそ守れるものがあるのだと。
だから自分はこういう人間なのだ。と決め打ちして色んな可能性を潰すことは、失うという結末にしかならず、それを選んでいるのもまた自分なのだと言われている気がするのです。
愛する人が野井戸に落ちないように自分がずっと手を引くことが愛なのではなくて、愛する人が一人でも野井戸に落ちないように導いてあげられたら・・・それが信じるということで、それが愛だと私は思う。