≪内容≫
思想家にして武道家のウチダ先生と元ラグビー日本代表の平尾剛氏が身体論をめぐって意気投合。スポーツ嫌いの子どもが増える理由、筋トレの有効性、勝敗や数値では測れないカラダの魅力と潜在力について語り尽くす。文庫版オリジナルの特別対談「進化する身体論」収録。
私、運動が大嫌いです。
だけど身体を動かすことが嫌いなのではなくて、一人で水泳したり走ったり、youtubeのダンスエクササイズとかヨガとかするのは好きなのです。
じゃあなんで運動が大嫌いなのかというと、軽い呪いのようなものがかかっているからだと思っています。
学生時代の「わ~運動神経ないね!」とか「走るの遅っ!」とか、そういう他人からの悪意のないただの感想みたいな言葉や、自分自身が他人と比べて劣っていると実感してきた経験によって、私=運動出来ない=運動嫌いという揺るぎない自信みたいなものが出来ています。
だけど、一人で動いて汗をかくのが好きならば、運動自体は好きなのかも知れない。
他人と比べるのではなくて、自分だけの感覚とするなら。
本書は運動についてもですが、それより身体について語られています。
すごくそうなんだよな~って思ったし、励まされたり、何より「私、運動が好きかも!」と思えてきたので、身体に興味がある人はとても楽しく読めるのではないかな、と思います!
ドッヂボールが嫌い
私、ドッヂボールが大っ嫌いだったんですよ。
幼いながらに「なぜ人を攻撃しなければならないのだろう?」「なぜ脅えている人にボールを当てなければいけないのだろう?」「なぜ痛い思いをしなければならないのだろう?」と思っていました。
好きな人からすれば、ボールのやり取りは挑戦のし合いみたいなもので、「このボールを受けてみよ!」「かわせるか!」「逃がすか!」みたいなスポーツの一種に変換されていたのかもしれませんが、苦手な私からすれば理不尽に痛い思いをしなければならず、ボールを取れなければ同じチームの人に「あ~あ・・・」みたいな目で見られなければならず、逃げ続れば更に終わりが見えなくなる非常に苦しい時間でした。
私はまず他人と争うことが嫌なのです。
自分が痛い思いをするのも嫌だし、他人が辛い気持ちになるのも嫌なのです。
スポーツは常に勝敗がつきものです。
だからこそスポーツが嫌いでした。
更に、私には勝ってうれしいという気持ちがありませんでした。
たまたまバスケの授業でミニバスの子のチームに振り分けられ勝利側になったときも、持久走で10位以内に入り成績が上がったときも、なんかなぁ・・・という気持ちしかありませんでした。
そもそも、なぜスポーツをしなければならないのか。
嫌過ぎて、私は高校を選ぶ基準に「体育祭がないこと」「水泳の授業がないこと」を選択肢に入れたほどです。
私には体育の授業で一体感を得た経験も楽しい気持ちになったこともなく、水泳や陸上競技の皆の前でタイムを計るという悪夢のような時間の記憶しかありません。
出来る人が出来ない人を笑い、出来る人がどんなに不真面目でも成績が良く、やれフォームが変だの、遅いだの、キモチワルイだの言いたい放題の世界がまかり通っているのだから、私のような体育弱者は相当居心地が悪かったのでした。
なので、私がスポーツを好きになったのは他人の目線がなくなり、スポーツが過度な魅力として映らなくなり、スポーツ選手が自分と戦ってるのを目にしてからです。
特に女子バレーボールの試合が好きです。
一所懸命にボールを拾い、繋ぐ姿を見るだけでグッと涙腺が弱まります。
アスリートの競技は対自分なので、誰かを傷付けるとか攻撃するってことではなくて自分との戦いなんだっていうのが見えるのでたぶん見ていて感動するんだと思います。
日本のルーツは武道ですよね。
そして武道はチーム選ではありません。
常に対自分、対相手、時と場合によって敵、味方があるかもしれませんが、基本的には一対一の世界です。
本書を読んで思ったのは、本来のスポーツというのは対自分であるべきだということでした。私の人生の中の体育は出来不出来、得手不得手が平常世界で、自分と向き合う時間なんてなかったし、自分が他人と比べてどうして出来ないのかっていう他人がいてこその時間だったように思います。
気付けたのは良かったですが、もったいない体育時間だったなぁと思います。体育時間がくれたのは「自分は出来ない人間なんだ」っていう劣等感でしたから。
そんなもの、持たなくていいものなのに。
気持ちが悪いは大事な感覚
あまりに長い間不自然な身体運用をしてきてしまうと、それに違和感を覚えないようにになる。痛みやこわばりや詰まりが「あるけど、感じない」鈍感な身体になってしまっている。
スポーツの根性主義はだから危険なんです。
「気持ちが悪い」「いやだ」という生物の本性に根ざしている感覚を、身体的な苦痛に対して鈍感になることによって乗り切ろうとする。
これは身体に限らず、人間関係での快、不快も生き延びるための選択をしていると内田さんは書いています。
気持ち悪い状態を打破しようとする動きは最少エネルギーかつ最短距離だそうです。
確かに熱いものに触れたときとか尋常じゃない速さで手が動きますよね。あれ?私こんなに俊敏だったかしら?みたいな。
差別感情の哲学/中島義道でも書きましたが、スポーツに限らず、努力や根性主義が私は嫌いです。
努力や根性っていう相対的な見方を信じて生きるってことは個として生きていないということと等しいと思うからです。
何事もそうだと思いますが、100人のうち98人が楽しくても残り2人は一切の楽しさも見いだせない遊びやらイベントやらテーマパークだってあるわけじゃないですか。
その2人はなぜ自分が楽しめないのかさえ分からないけれど、なぜか楽しめないという状況も大いにあると思います。
なんか分からないけどいやだ、なんかいやだ、なんか気持ち悪い、なんかこの人いやだ・・・そういう感情って個として生きるからこそ生まれると私は思っています。
そしてこの感情が私は結構強いです。
そしてこういう「なんか分からないけどいやだ」みたいなことを他人に言うと「わがままじゃね?」みたいな感じになることもたくさんあります。
なので、大好きな人はずっと大好きだけど、合わない人はほんとうに合わない・・・という両極端な世界になってしまいます。
だから白黒つけたがるってよく言われるんだろうな・・・と思うのですが、だってグレーでいるのがキモチワルイんだもの・・・と思ったり・・・反省したり・・・。
でも生きていく上で万人となんか上手くいかなくたってそこまで重大なことでもないかなって最近は思うようになりました。
それより、いやなのに頷く方が自分の身体に不調や痛みとして出るから、他人を大事にするより自分を大事にしようと思いました。
快・不快、美味しい・美味しくない、楽しい・楽しくない・・・そういうものをその場の雰囲気や付き合いで選んでいたら、どんどん鈍感になって自分ってものがなくなってしまうと思う。
それを「でも人間関係を円滑にするために必要」とか「コミュニケーションとして」とか「人を傷付けないため」に必要なのだと言われたこともあって、それをそうなのかな・・・とずっと考えてきたのですが、自分にはこの必要性が分かりませんでした。
分からないことで、自分は人間関係を円滑に出来ていないのか、コミュニケーション能力がないのか、人を傷付けてきたのか・・・と気にかかっていたのですが、本書を読んでそれはまた違うなって思えました。
一流のアスリートとは
ありがたいことに、気持ちのいい身体運用をしているひとって発信力が強いから、子どもにもそれは分かる。
「今このひとすごく気持ちよくなってる」というのがわかる。
そういうオーラを出せるのが一流のアスリートだと思うんです。
すごくそう思う。
人に合わせている人って全然本意が見えないんですよ。
まぁ人に合わせているから当たり前なのかもしれないのですが、そうなってくると本当にその人が楽しいと思っていたとしても相手に伝わらなくなってしまうと思うんです。
あるけど感じない鈍感な身体と、本意を見せない表情になっていくのは同じな気がするんです。
本人は「本当に楽しい!」と思っていても、その楽しいが個としてなのか相対的になのか本人にも分らなくなってしまっている状態。
本人が分からないものは他人にも伝わらないことの方が多いと思います。
私は「伝えたい」という感情が強いんだろうなぁと思っています。
だから一個の記事が長いし、ブログやってるんだろうなと思います。
誰かに「伝えたい」「分かってほしい」という感情があって、それを相手に投げかける為には、自分の身体や表情が素直でなければ相手に伝わりにくいと思っています。
自分を偽ったり隠したりしているのに相手に分かってほしい、というのは相手への比重が大きすぎると思います。
なので、私が「でも人間関係を円滑にするために必要」とか「コミュニケーションとして」とか「人を傷付けないため」に快・不快、美味しい・美味しくない、楽しい・楽しくないを相対的に選べないのは、自分の気持ちを「伝えたい」「分かってほしい」という気持ちの方が強いからなんだって思いました。
私は気持ち良さそう・・・という人はあまり社会で見ませんけど、無理していなさそうで自然な人に惹かれます。
この本を読んでいると、もっと自分のことを知りたくなって自分の身体が今どんな状態なのか知りたくなってきます。
自分のことなのに、まだ全然知らないことがあるって何だか不思議です。
だけど、今の私は絶対に気持ちのいい身体運用はしていないと思うのです。もっと身体的な快・不快に敏感になりたいな、と思いました。
継続は力なり
生まれもった本能に入ってるシステムをいじるためには、数やるしかないですね。逆に言うと、数をやりさえすれば、人間って生得的に持っている身体システムをかなり変えられるということですね。飽きるほどやれば。
でもね、「飽きるほど」って簡単に言うけど、武道でやっていて思うことは、その身体の使い方を変えるための稽古というのは、絶対時間数じゃないんです。
やっている時間数じゃなくて、むしろ年数。
毎日毎日365日一年間稽古した人間と、1週間に1回5年稽古した人間だと、週1回5年やってる人間の方がうまくなる。
私は歌を習っているんですが、5年くらいになるかなぁ。全然上手くならなくて最初はすごく辛かったです。
「なんで2年もやっているのに上手くならないんだろう」「なんで他の人は習わなくても出来ることが出来ないんだろう」「才能の欠片さえないんだろうに、なぜやり続けるのだろう」とかね。
先生の前で「もう嫌なんです!!」とか泣いたり。笑
そのときは1~2年で上手くなると思っていたし、実際上手くなる人もいたので自分の出来無さ加減に相当嫌気がさしていました。
だけど今はすごく歌うのが楽しいんですよ。
なぜかというと5年かけてやっと歌と身体の架け橋みたいなものが出来あがってきたからだと思っています。
だからまだまだこれからで、やっと「正しく音が外れている」「正しくリズムがズレている」ということを感じ取れるようになった状態です。
私の先生はとても抽象的な先生で「ダメ!」とか「出来てない!」とは言わないし、私が欲しい言葉はくれません。
こうすれば音取れるよ、とかそういうの。
返ってくるのは「言葉の意味を考えなさい」とか「言葉にもリズムやイントネーションがあるんだからそれを無視しちゃダメでしょう」とか。
私は「意味分からん」と思いつつ、何か重要そうだな・・・と思い、でも分からないまま通っていました。
それが今は少しずつ「あ!こういうこと言っていたんだ」って後から後から分かるようになってきました。
それは言葉で説明するのがすごく難しくて、とても体感的なことです。
そう、体感的なのです。
音楽は文化系でありながら、実体はスポーツです。この本を読むと武道なんじゃないかと思います。
その日のレッスン全てが呼吸法なり身体の使い方なり、立ち方座り方になる場合もあります。一般的なボイトレと思うと何のレッスンだか分からなくなるときも多々あります。
始めた当初は人並み程度に歌えるようになりたいって気持ちが大きかったのですが、今は気持ち良く歌いたいなぁって気持ちの方が大きくなりました。
あともう一つ、歌を習うことはメンタルトレーニングでもあります。
これは先生によって違うと思いますが、私の先生はメンタルな部分、歌に対しても「音程が~リズムが~」ではなく、なぜその音程なのか、その音程とリズムと歌詞がどう繋がっているか、とかそういう話し方をするので(どこの先生もそうなのかもしれませんが)結果的に熟考することと、自分と向き合うことが必須になってきます。
私はただ歌が上手くなりたいっていう、いわゆる正しいピッチとリズム感をつけるために習いに来たのに、なんだか壮大なことになってきたぞ・・・と歌の世界の深さに少しずつ小さな歩幅で一歩ずつ歩き出している途中になってしまいました。
どんなに潜在的な身体能力が高くても、師に出会えないひとはそれっきりなんです。いっぱいいますよ、そこらじゅうに。生まれもっての身体能力は群を抜いて高かったのだけれども、ついに師に出会えなかったのでただのメタボリックおじさんになったひとというのは。
逆に師に出会えたひとは、どんなに生得的な身体能力が低くても、生まれもって与えられた身体的条件のなかでのベストパフォーマンスを実現することができる。
結局は、師に出会う能力があるかどうかで決まるんだと思います。このひとはわたしに快感を与えてくれるひとなのか、わたしを不快にするひとなのか。
最終的にはその皮膚感覚的な判断に委ねるしかない。
私の歌における生得的な身体能力は最低だと思います。
だから元々身体能力が高い人には死んだって追いつけないと思います。
だけど、それでも生まれもって与えられた身体的条件のなかでのベストパフォーマンスが出来ればそれが自分の中の一番気持ち良いことなのだと思うので、そこに辿り着きたいなぁ・・・と思っています。
世の中は若くして結果を残す人が多くなってきたせいか、最短で結果を出せなければあまり意味がないというか、価値がないというか、やっても無駄みたいな風潮を私が勝手に感じることがあります。
習い事をしていると、「いつ辞めるの?」「何のためにやるの?」「歌手にでもなるの?」とか、すごく特別なことをしているのように思われるのですが、習い事というのは絶対に無駄じゃないと私は思っています。
女らしいということ/平岩弓枝でも稽古事があったから日常をいきいきと過ごせたとありました。
人間は100年そこらで死ぬ生き物です。
だから習い事なんてしてもお金にならなきゃ意味がないと思う人もいるかもしれないし、習い事に使うお金がもったいないと思う人もいると思うのですが、短い人生の中で自分と向き合い向上していくというのはとても楽しいことだと私は思っています。
たまに好きなことなんかないって人に出会いますが、好きって後天的なものでもあると思います。
興味ないけどやってみたら好きになった、とか、ここまで本気でやるつもりなかったのに本気になっちゃったとか。
本書を読むと、自分に向き合いたくてたまらなくなる。
出来ないから、楽しい。