深夜図書

書評と映画評が主な雑記ブログ。不定期に23:30更新しています。独断と偏見、ネタバレ必至ですので、お気をつけ下さいまし。なお、ブログ内の人物名は敬称略となっております。

純粋異性批判 女は理性を有するのか?/中島義道~自分の主観的好みと客観的美って切り離せる?~

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≪内容≫

「仕事と私とどっちが大事なの!」「浮気するなら私にわからないようにして!」……男には決して理解できない女の論理は、一体どこから生まれるのか?カントの『純粋理性批判』の構成に倣いつつ、「女という不可解」を徹底解剖する大胆不敵な女性論にして最良のカント入門書。

 

女だから、男が女って分からない・・・と思うのが分からないのですが、本書を読んで得たのは「私ってめっちゃ女だった!!!」という気付きと、哲学というのはヨーロッパ男性理性であるという新たな思考でした。

 

このヨーロッパ男性理性に対しての「どんだけ強引やねん」っていう強引さが面白くて、中島さんは病的強引と言っています。確かに。

 

女のかわいいは快から生まれる

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街中で、え!あんな美人がなぜ・・・?と思ってしまう光景を見たことありませんか?

その心理が書かれています。

 

なぜ芸術家やコックやソムリエのほとんどは男なの?

→女は自分の主観的好みと客観的美をどうしても切り離せないから。

と書かれています。

 

美と快適の問題は

「カント 美と倫理とのはざまで」の記事を読む。

で詳しく書かれていました。

すっごく端的に言うと、美は大衆的絶対で快適は個人的感情です。

 

男なら「彼女は好みじゃないけど、文句なしの美人だ」と冷静に判断することは可能だが、女の場合「彼は嫌いなタイプだけどイケメンだ」という台詞を吐くことは無限に難しい。 いや、たまにそういう判断は可能だとしても、女の場合、ある男を愛してしまうと、好み(快適)と美とがあっという間に融合してしまい、両者の境がなくなる、というよりその男の純粋な形態的美はどうでもよくなる。 男なら、熱愛の時期でも、相手の女の美的偏差値を冷静に判断し、他の美人にも眼が行くが、女が男を真剣に愛してしまうと、こうした冷静判断が出来なくなり、他のイケメンは眼に入らなくなるのである。

 

 すごく分かる!!!!

なぜか、国民的イケメンでも全くイケメンに見えないことがあります。 そして、全然イケメンじゃないとは思いつつかっこよくてしょうがない人もいます。

 

自分の主観的好みと客観的美を切り離すことは・・・

無理かも・・・。

 

かわいいから好きなのではなく、好きだからかわいく感じるのでどうしようもない感じなんですよね・・・。 この理由も読み進めて行く内に「だからか!」と思えてくるんですが、逆に主観的好みと客観的美を切り離して考えるって誰視点なの?と思えてくる。

 

というか、なぜそれが「万人にとっての美」と判断出来るのかが理解できない・・・。

最初に書いた哲学というのはヨーロッパ男性理性であるということと、病的強引であるというのはこういう考えからも感じられるのですが・・・。

 

 男性が「女のかわいいってアテになんねぇ」と言うのはこういう心理なんだろうなぁ~と思いました。女性からすれば好きだからかわいく感じているし、好きだから友達なんだから、つまり友達はみんなかわいいってことになってもおかしくないですよね。

 

 たぶんこういう思考回路が「は?」ってことだと思いますし、女性でも好き嫌いと美醜を分けて考えられる人もいると思うので、友達=かわいいが全ての女性心理だとは言いませんが私はやっぱり好きな子ってかわいく見えてしまいますね。 ていうかかわいく見えるから好きなんですよね。

 

だから彼氏に関しても、はたから見たら「なぜ・・・?」と思う人でも本人には最高にかっこいい彼氏なわけです。 こうやって文章にしていくと、確かに一般論が通じないので「女ってなんでなんでもかんでもカワイイって言うの?」って思う気持ちが分かってきました。笑


でも嘘じゃないんですよ。かわいいんです。

 

桜を見て綺麗だなぁ→かわいい

キモカワ深海魚を見て楽しくなる→かわいい

友達の笑顔が見れて嬉しい→かわいい

 

これ全部本人にとって快適だからかわいいに変換されちゃうんですよ。

 

不快に感じるものには一切かわいいなんて思いません。

不快なブリッコを女性は絶対かわいいとは思いません。

不快にならないブリッコはかわいいのです。

 

健全な女性理性

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面目や大義名分が失われると、とたんにあたふたするのは決まって男である。辻褄が合わないと無理に辻褄を合わせようと必死になるのは、男だけである。

女は面目や大義名分より生き抜くことのほうが重要であること、いかに辻褄が合わなくても、総体的に見て「トクをすれば」いいことを知っている。

 

 大体この本を読んでいて、「もう・・どうでもいいよ!!!」って思えることが多くて、そこまでして魂の不死を証明しようとしなくていいよ!!事実死んでんじゃん!死んでからどうやって証明すんだよ!!!とか思ってきます・・・。

 

 いつの世も「負けられない戦いがある」と言うのは男な気がする。
「男には命をかけてやらねばならぬことがあるのだ・・・!」みたいな。
よく分からない。
生きていく上でやらねばらならぬことは生きることであり、その他のことは付加価値に過ぎない。
それを男のロマンというのも知っていますが、全く分からないような気がします。
 
著者は「なぜ女はこういう男の気持ちが分からないのだろう?」と締めています。
逆になぜ生きることより大切なことがあるのだろう?という気持ちがあります。別に社会的な地位とか名声とかがなくても、誰かと一緒に生きて死ぬってことが出来ればバンバンザイじゃない?とか思ってしまう、私は本当に女なんだなぁ・・・と本書を読んで身に沁みました。
 

われ思う、ゆえにわれあり?

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デカルトの有名な絶対的に確実な第一原理「われ思う、ゆえにわれあり」は、ほとんどの女に絶対わからないに違いない。思考することによって、はじめて私が存在するなどというネゴトに付き合っている暇はない。

私は存在するに決まっているのだ。

これは全身で実感することであり、これほど確かなことはない。

(中略)

すべてのことが疑わしく、嘘らしく、ぐらぐらして、不安でたまらない!絶対的に安定したものがなければ崩れてしまう!生きていけない!という叫び声がない。

 

 男性がこういった懐疑を内に秘めもんもんと哲学の道を進む一方で、女性はこういう不安をヒステリーになったりリストカットしたりという目に見える形で爆発させることによって根源的な懐疑に向かう流れを封鎖している、と書かれていました。

 

思考することによって、はじめて私が存在するなどというネゴトに付き合っている暇はない。

私は存在するに決まっているのだ。

 

うん。そう。

そこに疑問を持ったことはなかった。

だって生まれちゃったから。生きてるから。つまり存在してるってことじゃん。。。みたいな・・・。

なぜ生まれたんだろう?とか生きる意味とかで悩むことはあっても、存在自体を疑ったことはなかった・・・。ええ・・・マジか・・・。

 

というか、これ一応ヨーロッパ男性理性になるみたいなので日本人男性、アジアや南米とかの男性にも有効な心理なのかとても疑問です。

 

なんでヨーロッパって戦争ばっかりして、更に植民地とかやり始めたんだろう?って

ずっと疑問だったんですが、これほど懐疑心強いとまぁそうなるんかなぁ・・・と思ってしまいました。

あと、なんであんなキリスト教ゴリ押ししたんだろう?って疑問も病的強引さって言葉で腑に落ちましたね。

 

人それぞれってもんを強引に「これが万人の美じゃ!」「これがいい宗教や!!」と他人に押していける心理が私には分かりません・・・。

女とか男とか・・・なのか?

 

面白いのは、昔の哲学って科学や天文学と一緒の類だったとのことで、今では科学が色んなことを証明しちゃってるし、天文学も発達しちゃったので哲学は他の学問で証明出来ない「何か」にしがみついている・・・という部分です。

あと作者自身がカントに「もうついていけない!」とか書いているところ。笑

 

アフリカとか哲学あるのかなぁ・・・。

大体欧米の映画とか芸術とか全部キリスト教がらみだし、その割に争い多いし、矛盾半端なくない?ていうかそもそも神話自体ひどい話多くない?とか思うので、ほんとなんなんだろう?と興味がつきません。

 

これは男性が読んでも「分かるー!!!」となるのでしょうか・・・。

私は「あ、私めっちゃ女だ。」って思って、上手く言えないんですけど女でいいんだみたいなことを思いました。

だから自分のことを女っぽくないなぁと思ってる人は読むと目から鱗かもしれません。

女も理性ありますよ!!