≪内容≫
第一次世界大戦下のカリフォルニア州サーリナスを舞台に孤独を抱えたナイーブな青年の青春と家族との確執を描いた作品。旧約聖書の「カインとアベル」を下敷きにしたジョン・スタインベックの原作を、名匠エリア・カザンが監督したジェームス・ディーンの本格デビュー作。
時の洗礼を受けた作品しか読まない・・・的なことを言ったのは、確かノルウェイの森の先輩だった気がするんですが、時の洗礼を受けたものだけ見ると濃厚すぎます。
私はあまり濃厚なものばかりに触れていると、頭痛とか体調が悪くなるのでしていません。
なので、久しぶりに名作と言われる本作を見たのですが・・・深いですね。
ただ、やはり2時間ものだと「うーん?」と思える部分もあるので原作を読みたいなぁと思いました。
原作がある映画だと2時間という枠におさめられたものの中で「よく分かんないけど、たぶんこういうことなんだろうな」っていう適当な扱いになってしまいます。
それはちょっともったいないことだし、自分の感性も鈍る気がするので分からないところは分からないと認めたい、と思っています。
兄弟への愛って平等じゃないよね
これ双子の兄弟たちがいくつなのか分からないのですが、兄(姉)と比べて自分は愛されていないと思う弟(妹)の気持ちはとてもよく分かります。
ああこの小説に10代のとき出会っていたら、少しは変わっていたのかもしれない・・・と思えて仕方がない作品。
善人である親父は善人である兄を愛していて、問題児の自分は愛されていない・・・と感じる主人公・キャル。
母は死んだと聞かされているが、実は東の町で商売をしていることを知ったキャルは、母という悪人に似たから自分は愛されないのだと感じる。
人間だから、親と子の関係でも相性があるんだろうな、というのは大人になってから分かったことです。
私の家は姉の方が問題児でしたけど、姉の方が愛されていたと思います。
「手がかかる子ほどかわいい」っていう感情なのだと思います。愛されたくて姉のように迷惑をかけずにいい子に過ごしても、逆に「あんたは大丈夫」って更にかまってくれなくなるし、姉に目が行くだけです。
親の兄弟への愛の偏りを感じると、一人っ子が猛烈に羨ましくなったものです。今では私に姉のように愛を注がれても鬱陶しいからいーや。と思えるようになりましたが。
あとは子供の方がどうしても親を好きになれないという場合があって、そういうときに兄弟ですごく親密になったり、親がしっかりしていなくて、子供の方が愛が欲しい!よりも私がしっかりしなきゃ!と思う場合とか、色々ありますよね。
私はキャルの考え方、行動の仕方はとても現実的で私はかなり共感しました。
父がレタス業で負った負債を稼いでプレゼントしたのですが、返してこいと言われてしまいます。
稼ぐって言ったってまだ子供(と母に言われている)ですので、並大抵のことではないです。自分の足で色んな人に相談し、契約し、頼み込み、得たものなのです。
一方で、父の気持ちも分からなくはないです。
彼は利益を毛嫌いしています。もうこれは変えようもない資質というか、もう父が父であるための一つの自身でもあるわけです。
だから、息子が自分のためにしてくれたことは分かっていても、その信念を曲げるわけにはいかないのです。
本作は聖書の「カインとアベル」がモチーフになっているわけですが、ここはまさにそれを感じさせる1シーン。
神=父だとして、その子供であるカイン(キャル)とアベル(兄)はそれぞれ供物(プレゼント)を用意する。
アベル(兄)は神(父)が求めている肥えた羊の初子(恋人との結婚)を、カイン(キャル)は収穫物(負債した分のお金)を渡す。
しかし、神(父)はカイン(キャル)の収穫物(負債した分のお金)には目くじらを立て、アベル(兄)の肥えた羊の初子(恋人との結婚)を大いに喜ぶのだ。
まさに「私を喜ばせたいのなら私が望むものを捧げろ」というわけです。
相手が望むものを何も考えずに渡せる人間と、自分なりに考えて少しでも助けになるようなものを渡した人間がいて、裁かれるのは後者なのですか?
こんなの悲し過ぎるとは思いませんか。
私はなぜ神がカインの収穫物に目をやらなかったのかについて、支配するのに思考が邪魔だったからではないのかな、と思います。
自分の頭で考えて行動するようになれば、それは脅威に発展する。
だから考えないようにする。
考えなくていいのだ、お前はただ俺が望むように生きればいいのだ。
そうすれば私はお前に限りなく愛を捧げるだろう。
とでも言うように。
ほんとにこのシーンは胸が痛い。
キャルの報われない愛が悲し過ぎる。
兄よりも考えて考えて行動してたのに、何もしていない兄の方がいつも愛される。自分の思いはいつも受け入れてもらえない。
愛を受け入れてもらえない。どんなに尽くしても。思考がある限り。
「私は弟の監視者なのですか?」
僕らは許される側だ。
キャルと母はそこに疑問を持ってしまう。
どうして?同じ人間なのに。分かろうとしない。
自分の信じる善を押し付け縛ろうとする。決してキャルや母を認めようとはしない。
それは奴隷と一緒ですよね。
植民地にした国の国民の思考を奪うために教育を失くした行為と一緒ですよ。
それなのに自分は善人であると信じて疑わない父と兄。
そんな兄の恋人アブラ(どうしても油と思ってしまう・・・)は兄を愛していながら苦しみます。
アロンの考える愛は清く正しい
でもそれだけじゃないはずよ時々自分がとても悪く思えて頭が混乱するの
つまりね、母親の代わりに彼は私を善のかたまりと思ってる
彼が愛しているのは本当の私じゃないのよ私はそんな善い女ではないわ
自分の理想を他人に押し付けることほど悪いことはないと思う。
それって優しい人に甘えているだけで、受け入れてくれる人に依存しているだけだから。
それなのに自分は良いことをしている、善人であるというのはとても悲しい。
そういうことしていると、傷付くのは周りの人間なんですよね。
親と子供の相性が良くない場合は十分あり得ると思うし、しょうがないと思う。
だけど親子だけじゃなくて、恋人とか友人とかにもそうだけど、自分の理想を押し付けられた方はたまったもんじゃないですよ。
しかもやさしい人ほど、その理想を叶えてあげようと無理に自分を曲げてしまおうとしてしまう。
そうやって自分の理想が他人をねじ曲げてしまうことがあるんです。
なぜそうなった原因を考えない?
心がねじ曲がっているのなら、ねじ曲がる理由があるのに。
自分が善だと思い込んでいる人間は、そういうことには興味がないのだ。
自分の理想だけが全てで、それを守ることが自分にも他人にも良いことだと思っている。
分かり合えないこともある、だけど分かり合おうともしないで決めつけないでよ!!!と思ってしまいました。
ラストシーンがなんかムリヤリに感じたので小説を読んでみたいと思います。
ほんと聖書って無限大にテーマあるなぁ・・・と感じます。
気が重いけど、一度は読むべきと思っているベストセラーの聖書。
理想だけを求める父と兄はどこか非現実な夢追い人に見えました。