深夜図書

不定期に23:30更新しています。独断と偏見、ネタバレ必至ですので、お気をつけ下さいまし。なお、ブログ内の人物名は敬称略となっております。

公的に生きるひと私的に生きるひと。ナルトの英雄性について考える。

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村上春樹はよくエッセイで「私は個人的な人間なので」というような表現をよく用います。

他の人が書いた本で、誰の何て言う本だったか定かではないのですが、「よくブログ等で"個人的には"という言い方をする人がいるが、個人でやっているんだから個人的以外なわけがないのにそういう前置きに何の意味がある?」的なことが書いてありました。

 

個人的とはなんだろう?

私にとってこの疑問は表面には出て来なかったものの、私の内部ではずっと燻っていたみたいです。

そのことについて思うことがあったので、今日は一つの作品の書評というより、色んな作品に触れてきた結果感じたことを書いていこうと思います。

 

 

まず、私はNARUTOが心底好きなのですが、私はなんでこんなにNARUTOのナルトが好きなのか分かりませんでした。

私はどちらかというと、ヒール役が好きだし暗いキャラクターが好きなので、どっちかって言ったらサスケなのですが、NARUTOにおいては今までの私の通例は作用しませんでした。

 

ナルトは里の英雄になるわけですが、正直連載時に読んでいる時は感動はしたけど、シナリオ的には普通だと思っていました。

里の嫌われ者(理不尽ながら)が努力や根性や勇気、思いやりで認められるようになる。

努力は報われる。

そういう話ってたくさんあるので、特に疑問もなく。

ナルトは強くて優しいな。それくらいです。

 

それから時間が経って、冷静になって読んでみたら、ナルトってほとんど戦っていないんじゃないか、と思いました。

なんというか死闘を繰り広げているのって、カカシ・自来也・シカマルとか・・・まぁまぁ他の班だったりするわけです。

死ぬのも他の班だし。

いや、一応戦うんですけど、なんていうかなんていうか、魅力的な戦いはしていない。

例えば、チヨばあとサクラVSサソリのときとか、カカシと10班VS角都、飛段のときとか、生死かかってます!って戦いにナルトっていないんですよ。

しかも我愛羅が一尾を抜かれて死んじゃったとき、チヨばあが自分の命を我愛羅に捧げるときも、ナルトはただの医療忍術だと思い込んでいる。

 

ナルトは孤独や痛みや苦しみにはとても近いところにいるけれど、死からは非常に遠い場所にいると思いました。

ナルトの目の前で身近な死はほとんど最終まで来ないんですよ。

敵が死ぬ(殺すのはカカシとか他の人)ことや、親しい人が亡くなるのも自分から離れた場所で起きる。

もしくはすでに死んでいる。

 

その対極にいるのがサスケです。

サスケは自分以外の一族を皆殺しにされています。

彼に死の匂いは非常に強く残ったと思います。

しかも、彼はナルトと真逆で自分の近いところで目に見える場所で人の死を経験する。

 

本日の題の「公的に生きるひと私的に生きるひと。」ですが、

公的に生きるのはナルトで、私的に生きるのはサスケです。

英雄はナルトで、個人的なのがサスケです。

英雄とは、個人的な恨みや、失望や、復讐心に駆られてではなく、勇敢に、品位を持って、自然な形で人生に参加する人を言うのです。

 

英雄の行動範囲は超越的なものではなく、いま、ここ、という時間領域のなか、善と悪の領域のなか、対立物の組み合わせのなかに限られます。

人は知恵の木の実を食べましたが、それは善悪だけではなく、男女、正邪、これとあれ、光と闇とを知る木の実でもありました。

 

 

サスケが個人的な恨みや復讐心で動き回っているのとは対照的にナルトには個人的なものというのがないのではないか?と思えてきます。

 

NARUTO疾風伝~火の意志を継ぐ者~でカカシが里のために死ぬと決めたとき、ナルトは「俺の大事な先生だから!」とかは言いませんでした。

誰だって自分にとって特別な人間は特別扱いしてしまう。自分の子供だけは死なせたくない、自分の愛する人だけは生き残って欲しい、そう思うのが大半だと思いますが、ナルトは「誰かの命を犠牲にして成り立つ里を子供たちが愛せるかよ」という理由からカカシを救おうとするのです。

 

ナルトがサスケにこだわるのは友情もありますが、彼が英雄ならば個人的な友情を超えて、それが結果的に里のためになるからなのだと思っているからだと今は思います。

 

ナルトは自分の個人的な怒り(ヒナタがやられたときとかまだ幼いときとか)で人を殺すことはありません。

里を守る、仲間を守る、そういう公的なキャラクターは今まで読んだ漫画ではいなかった気がします。

NARUTOって最終的に行きつくところもそうであるように神話チックだよな~と思いました。

 

 

それで、そう考えると、村上春樹の言う「私は個人的な人間なので」という表現がすごく分かるなぁと思うようになりました。

私はサスケが嫌いなのですが、なんで嫌いかっていうと自分にそっくり(周りの愛なり差し伸べられた手を素直に受け取れないところなど)で、ナルトがかっこ良いからなんです。

なので私も個人的な人間なんだな、って実感しました。

公的な人間に憧れつつも、個人という枠から飛び出すことが出来ない。

 

公的な人間っています。

まぁナルトのような人です。いませんか?誰にでも優しくて、どんなクレーマーにも親切丁寧に対応したり、自分のことは二の次で他人を優先したり、自分の好き嫌いに関わらずある程度平等に接することが出来る人。

 

しかもそこに個人的な計算なり欲望がなくて、なんというかそれ以外の方法を知らないみたいな感じです。

だからこそ人がついていきたくなる。

 

そんなかっこいい人間になりたいな、なれないなって思って生きてきたんですが、最近は自分はほんとうにそういう人間になりたいのか?と自問自答することが増えてきていました。

 

生きていると色んな人が"色んな普通"を押し付けてくる。

それにピンとこない自分に傷付いたり、何とか"普通"になって周りに溶け込もう、普通になろう、と足掻いてみたり。

だけど、結局"普通"なんてどこにもなくて、幻の秘宝でも探していたかのように最近は思います。

 

どこにいても、どこにもいないような気がして、どこかに帰りたいと思っている自分がいます。誰と居ても一人になりたくて、一人でいても一人じゃないような気がするんです。

 

例えば自分のことを「変なのかも?」と思うのはどうしてだろう?

それは他人がいて、普通があるから。

 

一人でも寂しくない。

だけど客観的に見たら寂しい。

私は個人的には寂しさは感じていないけど、大衆的には寂しさを感じる。

 

寂しさを感じることはできるけど、寂しくはない。

 

公的か私的かなんて二元化してしまうのは無理がありますが、どちらかというと・・・って考えるときっと二つに分かれるんじゃないかなって思います。

別にどっちの生き方が正しいとか、良い悪いっていうのでは全くありません。

 

ただ自分の本質を"普通"というマジックワードに惑わされない方が生きやすいのかなぁと思いました。

個人的だからな、って開き直ってから色んなものが見えるように(感じられるように)なったので、なんか書きたいなと思いました。

 

聞いてるつもりで聞けていない。

見えているつもりで見えていない。

 

そういうものが、どれだけ生きていてもあるもので、その年齢、その時代にしか聞けない歌なり見えない絵なりがあると思っています。

 

それを出来るだけ見たい、聞きたい、触りたい。

そんなもの他人と共有出来るかも共感出来るかも分からないし、お金にもならなくて、美容にも、得にもならないのですが、それが一番生きがいを感じるところでもあります。

 

言葉にもならないような感覚的なものを追いかけるのが好きで、そういう自分もなんかいいじゃんって思えるようになった近頃です。

 

いつも以上に散文になってしまいましたが、ここまで読んでくださった方、ほんとうにありがとうございます。