深夜図書

不定期に23:30更新しています。独断と偏見、ネタバレ必至ですので、お気をつけ下さいまし。なお、ブログ内の人物名は敬称略となっております。

螢・納屋を焼く・その他短編/村上春樹~たった一回負けてすべてが終わるなら勝負なんかしたくない~

≪内容≫

秋が終り冷たい風が吹くようになると、彼女は時々僕の腕に体を寄せた。ダッフル・コートの厚い布地をとおして、僕は彼女の息づかいを感じとることができた。でも、それだけだった。彼女の求めているのは僕の腕ではなく、誰かの腕だった。僕の温もりではなく、誰かの温もりだった…。もう戻っては来ないあの時の、まなざし、語らい、想い、そして痛み。リリックな七つの短編。

 

 

ノルウェイの森のスケッチらしい「螢」が収録されている短編集。

「納屋を焼く」はダンス・ダンス・ダンスの五反田くんかな~?と思いながら読んでいました。「踊る小人」もダンス・ダンス・ダンスかな?

 

「納屋を焼く」と「踊る小人」はちょっと怖い。

ゴシックホラーのような。

 

この書評は思いっきり「ノルウェイの森」もネタバレしています。

 

 

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螢が消えてしまったあとでも、その光の軌跡は僕の中に長く留まっていた。目を閉じた厚い闇の中を、そのささやかな光は、まるで行き場を失った魂のように、いつまでもさまよいつづけていた。

 ノルウェイの森を読んだときより色んなことが「こうなのかも」と思えた作品。

やはり短編だからこそ伝わるものがあるのかも?それともノルウェイの森を知っていたから?

分かりませんが、死んでしまったキズキ、言葉が上手く出てこなくなってしまった直子、そして深刻を避ける僕の像が少しだけ輪郭を見せた気がしました。

 

  ノルウェイの森も本作も「死は生の対極としてではなく、その一部として存在している。」というのが軸になっていると思われます。

 

キズキが死んだとき、僕も直子も死に捉われた。

僕は深刻に考えるのを避けた結果、分裂はしないけれど境目に閉じ込められた。

直子は分裂した。

 

死んだら終わりじゃない。

キズキが死んだあとも、キズキが生きていた記憶や軌跡がいつまでも二人の中に留まって、その跡を表示している。

僕はまだその光に手を伸ばしても触ることはできない・・・。

 

誰かが死んで悲しい、苦しい、辛い・・・そういった感情なり描写をこんな風に言葉で描けるんだ、と思いました。

 

死は"穢れ"という表現もあります。

キズキが死んだことで直子と僕は穢れが身体についた。

穢れをとるために必要なのは"禊"です。

禊は水で清めることができます。

その水から遠い山へ行った直子。そしてノルウェイの森の最後に海行った僕。

最後に緑に電話をした僕は「ここはどこなんだろう?」と言いますが、これは禊が終わったことで今まで生と死の境目で生きていた風景から死が消えたからではないのかな?と今更ながら思いました。

 

村上春樹・・・深い・・・。

 

 

 

納屋を焼く

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「世の中にはいっぱい納屋があって、それらがみんな僕に焼かれるのを待っているような気がするんです。海辺にぽつんと建った納屋やら、たんぼのまん中に建った納屋やら・・・とにかくいろんな納屋です。十五分もあれば綺麗に燃えつきちゃうんです。まるでそもそも最初からそんなもの存在もしなかったみたいにね。

誰も悲しみゃしません。ただー消えちゃうんです。ぷつんってね」

久しぶりに新美南吉 手袋を買いにを読みました。

いつ読んだんだろう?小学校かなんかの国語の教科書か道徳の教科書に載っていた気がしないでもない。

本作に出てくる狐が手袋を買いに来るお話とは違う内容でしたが。

 

納屋とはつまり物置なのですが、今の時代は納屋ってあまり馴染みがない気がします。聞いた事も想像もある程度つくけれど・・・なんだっけ?という感じ。

 

例えば、家が家電や食料品や生活に必要な全てが詰まっている我々の帰るべき場所で、納屋はいらないものを詰めた忘れられた場所、無意味な場所、がらくた置き場と考えてみます。

 

例えば、その家の中には思想なり野望なり夢なりが詰まっていて、納屋にはお金にもならないようなガラクタなり処分に困るような粗品、もしくは何もない空っぽな状態だったとします。

 

納屋は焼かれるのを待っているのでしょうか?

それが私から見たら納屋だとしても、何で建っているのかも、いっそ壊して新しい家を建てた方が土地のためにもなると思えるような納屋だとしても。

 

 

 

踊る小人

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「あんたは何度も勝つことができる。しかし負けるのはたった一度だ。あんたが一度負けたらすべては終る。そしてあんたはいつか必ず負ける。それでおしまいさ。いいかい、俺はそれらをずっとずっと待っているんだ。」

 踊らされるのを拒み、いつか訪れる敗北から永遠に捉われない場所に行ったのが鼠でしょうか。

 

小人は誰の近くにもいる。

「俺の言う通りにすれば君は成功する」とか、「そのバッグ欲しいんだろう?お金貸すところ紹介してあげるよ」とか。

 

この話はほんとうによく出来ている?というか、結末まで現代人の生活を模範しているように思います。

結局小人の力で得たものは、勝負に勝っても、世の中に追われる。

 

今現在、勝ち続けていても、いつどんな状況で負けるのかそれは誰にも分らない。問題は小人を夢に招待したのは本人だということ。

 

小人は誰の近くにもいるけれど、その姿を見つけられる人間は全てではない。

小人は自分の姿を見ることができる人の前に現れるのだと思う。

 

村上春樹の小説を読み始めてから、その先に何かあるかもしれないという好奇心を「何か悪い気がする」という勘が止めるようになりました。

 

今までは自分の判断が正しいのか分からなくて、「何か悪い気がする」と思うことがただの臆病でいくじなしなんじゃないか、とか思ってしまって「ええーい、飛び込んでしまえ!」と思うこともあったのですが、そういうときって大体傷付くんですよね。

こんなつもりじゃなかった、

思っていたのと違った、

とか。

 

確かに気が乗らないことはたくさんあるし、それに乗ることを時にはチャンスと呼ぶのかもしれませんが、それって早いか遅いかだけのことじゃないのかな?って最近は思います。

 

小人のダンスで意中の女の子を最速でゲットした主人公だけど、自分自身の力でだってある程度時間をかければどうにかなったかもしれない。

 

 時間は有限って言っても、そんな毎回勝負してたら結局早いうちに決着ついちゃうんじゃないかって思ってしまう。