深夜図書

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スプートニクの恋人/村上春樹~理解というものは、つねに誤解の総体に過ぎない~

≪内容≫

22歳の春にすみれは生まれて初めて恋に落ちた。広大な平原をまっすぐ突き進む竜巻のような激しい恋だった。それは行く手のかたちあるものを残らずなぎ倒し、片端から空に巻き上げ、理不尽に引きちぎり、完膚なきまでに叩きつぶした。―そんなとても奇妙な、この世のものとは思えないラブ・ストーリー。

 

 

"この世のものとは思えないラブ・ストーリー"。

村上春樹の作品においてラブ・ストーリーというものがあるのだろうか?と思う私です。

本書でいうラブ・ストーリーとは誰の?

すみれとミュウの?

それとも僕とすみれの?

あるいは僕とガールフレンドの?

 

そもそもタイトルの「恋人」が、辞書で出てくる「恋人=恋の思いをよせる相手」と同義語なのかも妖しいと思っています。

私が思うラブ・ストーリーが、情熱的なものだからかもしれません。

 

 

 

 

こっち側とあっち側

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村上春樹の作品って大体二つの世界があります。

意識と無意識、あの世とこの世、理解と誤解。

本作ではこのように書いてありました。

物語というのはある意味では、この世のものではないんだ。本当の物語にはこっち側とあっち側を結びつけるための、呪術的な洗礼が必要とされる 

 本作の語り手は"僕"なのですが、主人公は"すみれ"という僕が恋する女性です。

すみれは小説家志望で、友だちは僕しかいません。

小説家になりたくて大学を中退し、小説を書き続けるのですが、なかなか結末に至ることが出来ません。

そんな悩みを抱えながら日々を過ごしていたとき、親族の結婚式でミュウという女性に出会い、すみれは大きく変わることになります。

 

ミュウという女性に出会ったときから、すみれは何か運命的なものを感じていました。

そして、すみれはそれを恋だと思ったのです。

女性同士だし、ミュウには夫もいました。ずいぶん年上だし。

だけど、すみれはそんなことも関係ないくらい、ミュウに惚れこんでしまうのです。

 

そして、ギリシャの島で消えていなくなってしまうのです。

あっち側に行ってしまうのです。

 

 

 

ミュウ

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 私はこちら側に残っている。でももう一人のわたしは、あるいは半分のわたしは、あちら側に移って行ってしまった。わたしの黒い髪と、わたしの性欲と生理と排卵と、そしておそらくは生きるための意思のようなものを持ったままね。そして、その残りの半分が、ここにいるわたしなの。

 すみれには母がいません。

そして、おそらくすみれの母はミュウなのだと思います。

母は亡くなったと父に聞かされていますが、すみれはずっと"母"を探し続けていたのだと思います。

母が残してくれたもの、自分と母との繋がりのようなものを欲しがっていた。

しかし、父親はそういったすみれの気持ちを感じ取ることが出来ず、すみれが母のことをどんな人だったか?と尋ねても、「字が上手く、物覚えが良かった」などという、全く母と感じられない言葉しか返ってこない。

 

すみれがミュウと出会ってすぐに特別なものを感じた理由。

それは"家族"という匂いであり、血だったのだと思います。

 

昔、世界仰天ニュースかなんかで見たことがあるんですが、普通、親子で恋愛感情が芽生えることはないのですが、離婚なり何らかの理由で離れ離れになった親子が再会すると他人より特別な感情が生まれる・・・といったようなニュースがありました。

 

親子というのは、同じ家庭で生活する内に「お父さんの服と一緒に洗濯しないでよね!」みたいな、嫌悪感が生まれるらしいのです。(ウェスターマーク効果)

だから、一緒に生活していないと、その効果が生まれず、寧ろ「なんだかこの人とはすごく共通点があるわ!こんなに年が離れているのに・・・運命かもしれない!」みたいに逆作用が起こってしまう・・・・といった内容でした。

 

すみれはいつも同じ様な夢を見ます。

母に「お母さん」と声をかけると、母が消えてしまう夢。

母が何か言っているのに、いつもその言葉がなんなのか分からない。

 

こんな夢を繰り返しバージョンを変えて見ているくらい、母を求めているのだと思います、無意識なんだろうけど。

そして、すみれが消えたのは、母を探しに行ったのだと思います。

 

あっち側に行ったミュウが母で、こっち側に残っているミュウがミュウなのです。

「わたしの黒い髪と、わたしの性欲と生理と排卵」は、妊娠可能な年齢、身体能力を表していると思うので、すみれを産んだのはここにいるミュウではなく、あっち側にいるミュウということになる。

 

なので、おそらくこっち側のミュウもすみれを娘だとは思っていないだろうし、産んだことも忘れている可能性が高い。

彼女は過去の自分について性に奔放だったと言っているし、その中で妊娠した時期があったとしても有り得そう。

 

スプートニクの意味は「旅の連れ」。

人生が大きな旅なのだとしたら、連れ添う相手は恋人や親族、親友、かけがえのない人、愛する人であるべきなのだと思います。

 

僕のように教え子の母をガールフレンドとするような選択では旅は出来ません。

ミュウは旅の連れと共に半身を失い、すみれは旅の連れを見つける旅に出て、僕は正しい旅の連れを見つけることとなります。

 

 

 

 それぞれの年代にしかない特別なもの

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人にはそれぞれ、あるとくべつな年代にしか手にすることのできないとくべつなものごとがある。それはささやかな炎のようなものだ。注意深く幸運な人はそれを大事に保ち、大きく育て、松明としてかざして生きていくことができる。でもひとたび失われてしまえば、その炎は永遠に取り戻せない。

ぼくが失ったのはすみれだけではなかった。

彼女といっしょに、ぼくはその貴重な炎までをも見失ってしまったのだ。 

 注意深く幸運な人っているんですかね??

「これは大事な気がする」とか「これだけは手放しちゃいけない気がする」という直感が当たる人はいると思いますけど、どんなに注意深く生きていようが、その注意が本当に何かを失わないための力になるとは限らない。

 

というか「失ってから分かる」ということの方が大半で、もしも、失わずにいられる注意深く幸運な人がいるなら、その人は過去に失っている何かがあると思う。

 

例えば、学校の部活行事というのは"年代"というのがかなり大きな力として作用してくると思う。

その年代に上手い人間が集まったとか、その年代がミレニアムイヤーだったとか、丁度その年代がシード権を得る年だったとか。

 

だけど、それは消えることが正しい在り方で、ただのラッキーでただの運だとしか私には思えない。

そして、私たちはその年代から逃れることは出来ない。

ただ受け入れることしか出来ない。

 

僕がすみれを失いたくないあまりに、注意深く「いや、ギリシャは行かない方がいいよ」とか「僕は君が好きだから、君が僕を好きじゃないのは分かっているけど、僕の気持ちも考えてほしい」とか言っていたら、すみれは消えなかったのか?

 

答えはNOだと思う。

そして、僕とすみれはすみれが消えてしまうより先に関係が途絶えていたと思う。

 

物事にはタイミングというものが非常に重要で、その流れに反する行為は絶対に咎められる。

なぜ咎められるのかは、正しくないからという結果でしか分からない。

すべてのものごとはおそらく、どこか遠くの場所で前もってひそかに失われているのかもしれないとぼくは思った。

少なくともかさなり合うひとつの姿として、それらは失われるべき静かな場所を待っているのだ。ぼくらは生きながら、細い糸をたぐりよせるようにそれらの合致をひとつひとつ発見していくだけのことなのだ。

ぼくは目を閉じて、そこにあった美しいものの姿をひとつでも多く思い出そうとした。それをぼくの手の中にとどめようとした。

 

たとえそれが束の間の命しかたもてないものであったとしても。

ああ、そうだなぁ。。。と思った一節。

 

本作では僕もミュウも「永遠」という言葉を使うのですが、私たちが永遠の中の一欠片であり、永遠の中の一瞬であるなら、私たち全員が束の間の命であり、束の間の命の私たちがどんなに多くの思い出や気持ちや美しい景色をとどめようとしても、それは永遠の中では光の速さで失われるものなのかもしれません。

 

 

最後には最初に行っていた呪術的な洗礼をすみれはあっち側の世界行い、こっち側へ帰ってきます。

そして僕という柱には、あっち側とこっち側を結びつけるためにすでに血が塗りこめられ静かにしみこんでいた。

そして、僕とすみれの物語が始まる・・・という終わりなのではないかなぁ、と思います。

 

 本書を読んで思ったのですが、TVピープルの「加納クレタ」の中で、クレタが喉を切り裂かれたのは、呪術的な意味合いとクレタ側とタキ側を結びつけるための洗礼だったのかもしれない。

村上春樹作品を理解するにはもっと民族学的なものなり、宗教的なもの、儀式的なものを知らないと難しいなぁ・・・。