≪内容≫
探検家の書き記した旧きアフリカに憧れ、16歳で未開の奥地へと移り住んだイギリス人がいた。エイドリアン・ボーシャというその青年は、てんかん症とヘビ取りの才能が幸いして、白人ながら霊媒・占い師の修行を受け、アフリカの内なる伝統に迎え入れられた。人類の300万年の進化を一人で再現することとなった男の驚異のドキュメント。
とても面白い本でした。
音楽とか絵画とか今って商業的なものがほとんどのように私は日常で感じるんですが、元々の始まりというか、何で歌い出したかとか何で絵を描きだしたかってお金のためじゃないんですよね。
私はこれから音楽とか絵っていうのは今よりお金にならない時代になるんじゃないかなぁと思っています。今だって、純粋にその音楽が好きな人より歌っている(演奏している)人の人柄に惚れて応援している人が多うので、純粋な歌というのは原点に戻る気がします。(もしかして原点は動いてはいないのかも知れないですが)
勉強と理解は違う
力と恐怖との間に闘いが起こる。何かを恐れているときはそれに対して力がない。尊重することはいいが、恐怖はだめだ。何かを理解すると、それに対して力をもつことができる。だから、わしらのイニシエーションの学校は理解について教える。
人は意識を持つようになってからずっと恐怖と闘ってきたのだと思います。
ここで言う恐怖とは死ぬことです。
これ読んでから、もう一回バタイユに戻ろうと思いました。
誰しも学校に行きます。そして勉強します。
でも、与えられた知識を蓄える勉強ではなく理解するための勉強というのは、恐らく自分から踏み込まなければ開かれないんだと思います。大人になって勉強するというのは、もう就職してるのになぜ?とか偉いね、なんて言われたりしますが、生きるために、すなわち恐怖を克服するために必要なことで必然な気がしてきました。
明日死んでしまうとしても、明日のことは今は分からないですしね。
儀式の必要性
儀式とは強力な不安解除策であることに気がついた。ある肯定的な、信頼できる行為に注意を集中させると緊張がほぐれる。自分のコントロール外の力に脅かされると、人は三つの選択しかない。無視するか、救済を求めて祈るか、確立された儀式を行って魔術を働かせるか、である。
うーん。これ読むとちょっと分かってしまう・・・。
前に「少女生贄」っていう映画を見たんですが、これも一種の儀式の話で、他にも宗教
を信じない人間が殺されていく映画を見たんですが、タイトルを失念しました。もう一度見たいんですが、どうしても見つけ出せない・・・悲しい。
で、こういう儀式って集団でしか発生しないんです。
儀式は環境をすぐに変えることができなくても、参加者には大きな影響を与える力の源となる。
この本を読むまでは、生贄にされた人めっちゃ可哀相じゃん!(怒)宗教なんてろくなもんじゃないわ!と思ってたんですが、一種の共感呪術と思えばかなり腑に落ちます。
こういう映画だと、村の歴史とかがあまり描かれない為、生贄側にかなり偏った視点で観てしまい、理解に苦しむ内容に映ってしまっていたんですね。
こういう歴史があったからこそ今があるんだろうなあ・・・と思います。たぶんですけど、やっぱり昔の人だって人身御供なんて嫌だっただろうし何とかしたいと思っていたと思います。だけどそれを何とか出来るだけの知識がまだ整っていなかった。だからこそ先人たちは科学を発展させていったのだろうと思う。
今でこそ人身御供とかしたって結果が得られるか分からないのに、と考えることができますが、当時は訳のわからない恐怖と闘うために必要だったんでしょう・・・。魔女狩りとかさ。
本書に出てくるソト族の儀式には血が必要でした。
昔はもちろん人間の血、つまり人身供犠でしたが、今は違うと言う。その地とは「大地の血」というものでした。
生死を分ける血
人類の歴史を通して供犠やイニシエーションの儀式の中心には血がつねに使われていたのである。今でも、聖体拝受のような秘蹟の儀式などでは、ぶどう酒の聖別といったシンボリックな形で血の活用がつづいている。しかし、ぶどう酒が発明されるはるか以前から、もっと基本的なシンボルが存在していた。それは血に似ていることから選ばれた、大地そのものの一部だった。
オーストラリアの原住民(アボリジニ)の伝説によると、ウンティッパの女性たちが、性器から大量に血液を流し、それが地面に沈んでいって地球の赤オークルの鉱床を作ったのだという。
!!!???
びっくりである。キリスト教のパンとぶどう酒が、キリストの肉と血というのもびっくりだし、赤オークルが血石(ブラッドストーン)と呼ばれていることにも驚愕である。
でもある民族では、その場で動物を捌いてその血液まで飲んだりするしな・・・。血についてそこまで考えたことがなかった・・・。そりゃあ血筋とか血判とかあるけども・・・・。じゃあ判子を押すのが朱色なのも血の代わりなのか・・・。
なんでも意味があるんだなぁ。
本書を読んで思ったのは、アフリカの人達には彼らなりのやり方や生き方、幸福があるわけで、先進国の人たちが「こうしたら便利だよ!」って押し付けるのはどうなのかなぁ?ということでした。野蛮だとか非科学的だとか、特に呪術師、魔術師という考えに対してバカにするような考えを持つ人もいると思うのですが、私は一つの国の文化だと思うと素敵だなぁと思うのでした。
昔、職場の近くにいつも行列が出来ている占いのお店があって、上司から「お金あげるから占ってもらってきてよ」と冗談で言われたことがあります。それをきっかけにその場にいた四人で占いを信じるか否かって話になったんですが、三人は信じないといいました。大殺界とか血液型とかそんなので決められたくない、信憑性がない、という意見でした。
私は占いは肯定派です。
たぶん占いというのは合ってるとか間違ってるとかそういうものじゃないんです。例えば自分がどれだけ考えても理解出来ない苦難に満ちた状況があったとき。それをリアルに捉えすぎると誰かを恨んだり自分を必要以上に虐げることになると思うのです。
そういうとき、占いでも本でもいいから客観的な視点で考えると、「あぁそうか、運が悪い年だったのか、だから何でも上手くいかなかったのか」とリアルな世界から外れて、どこか遠く、パラレルワールド的な場所に苦悩を置くことができる。
私の中で、それは問題を投げ捨てたことにはならないんです。占いというのは一種の逃げ道であると思うのです。
必要なのは、原因を究明することだけじゃなくて、生きていくことだから。
それでその人が「なんだ、そうだったのか。」ってほっと安心できるなら、それが正しいとか間違ってるなんてことはどうでもいいように思うのです。正論が一番人に届かないように、正しいことばかりで生きていけるわけじゃないから。
てんかん症のボーシャ。
日本(本書ではイギリス)ではてんかん症を持つ人は社会に迷惑をかける存在と思われるかもしれませんが、アフリカでは大切にされ奨励される存在なのだそうです。
尊重することはいいが、恐怖はだめだ。