≪内容≫
多崎つくるは鉄道の駅をつくっている。名古屋での高校時代、四人の男女の親友と完璧な調和を成す関係を結んでいたが、大学時代のある日突然、四人から絶縁を申し渡された。理由も告げられずに。死の淵を一時さ迷い、漂うように生きてきたつくるは、新しい年上の恋人・沙羅に促され、あの時何が起きたのか探り始めるのだった。
この作品はわりとショッキングな内容で、しかもその謎が解明されないから余計にきつい感じに思います。
結局この作中で彼の巡礼は終わってはいない気がします。
あるいは、巡礼というのは終わらないことなのかもしれない。
巡礼の意味
大学時代のある日突然、四人から絶縁を申し渡された主人公・多崎つくるは、新しい年上の恋人・沙羅に促され、その四人に会いに行き真実を探す旅に出る。
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これが、「彼の巡礼の年」の意味するところだと思うので、巡礼というより訪問のはずなんです。だって巡礼というのは聖地や霊場を巡拝する旅という意味だから。
つまり、読む前から多崎つくるが会いに行く四人は彼の記憶にある四人とは違う状態であることが示唆されていました。
彼が会いに行く場所が聖地だとするなら、彼に何かしらの宗教心なりがなければ成立しませんが、彼は無宗教です。なので、この場合霊場を巡拝する旅ということになり、彼が行く場所は故郷であり今は霊場になった場所。
つまり、誰かが眠る場所です。
読み終わるまでタイトルの意味まで考えなかったのですが、読後に気付きました。
思いっきりネタバレします。
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本作は親友の内の一人の女性が死んでいます。
しかし、死んだのは彼女だけではなく、彼女が死んだことにより、彼女の近くにいた他の三人も部分的に死んだのです。
つくるは一人東京の大学に行き、在学中に絶縁を言い渡されます。
彼はものすごく傷付きました。そして彼が取った行動は彼ら四人の絶縁という意志を無条件に受け入れ自分の意志を捨てることでした。
彼は自分の意思を捨てることで死の淵まで行きましたが、彼は帰ってきました。しかし残った四人のうちの一人は死に、三人は部分的に死んでしまったのでした。
色彩を持たない人間と持つ人間
才能のある人間とない人間の隠喩にもなっているのかな?と思います。
何度か才能の話が出てくることと、つくる以外の四人の名前に色が入っていて、さらに他の登場人物の中にも色が入っている人間が出てくることでつくるが敏感に反応してることからそれを感じます。
つくるの自己評価は無個性です。
他の色彩を持った親友たちにはそれぞれステキな個性があるけれど、自分には際立った個性なり強みというのがない、それが彼の自己評価です。
僕にはたぶん自分というものがないからだよ。これという個性もなければ、鮮やかな色彩もない。こちらから差し出せるものを何ひとつ持ち合わせていない。そのことがずっと昔から僕の抱えていた問題だった。僕はいつも自分を空っぽの容器みたいに感じてきた。入れ物としてはある程度形をなしているのかもしれないけど、その中には内容と呼べるほどのものはろくすっぽない。
そして彼が惹かれたのは駅で、駅をつくる仕事につきました。
仕事内容は新しい駅をつくることだけではなくて、既存の駅の開発や、それに伴う動線を読み、それを確保するための道をつくることでもあります。
亡くなってしまったつくるの親友のうちの一人であるシロという女性は音楽の才能を持っていました。
もう一人の女性であるクロは陶芸に出会い自分の作品を作り、それが少なからず誰かの心を揺さぶるという才能を持っていました。
男性のアオは営業の才能を生かし、社内での成績を伸ばし続け、もう一人の男性のアカは自分の生きる道を自分で探し当て、新たなプログラムを開発し社会的な成功を手にしていました。
つくるはただ黙々と駅をつくる。
彼らのように唯一無二のような力ではなく、集団の中に属し、社会の歯車の一つとして存在しています。
人はつくるのような社会の歯車の一つとして存在する人間を無個性とし、他の四人のような人物を才能がある人、個性がある人と判断する。
それはあながち間違っていないようにも思います。
人は才能を羨むし、それがあったらかっこいいと思うのは誰だってそうなんじゃないでしょうか。
特別な自分にしかない才能。それで誰かを喜ばせ、感動させることが出来たなら。そっちの方が楽しい人生なんじゃないか、いい人生なんじゃないかって。
君にはなんとか一人で冷たい夜の海を泳ぎ切ってもらうしかなかったんだ。そして君にならそれはできるはずだと私は思った。君にはそれだけの強さが具わっていると
だけど、その才能が生きていくための強さになるかと考えると、それは両刃の剣だと思うのです。
有名な言葉で
「強くなければ生きていけない、優しくなければ生きる資格が無い」
というのがありますが、生きていくってことを純粋に考えると本当に上記の言葉が当てはまると思うのです。
多崎つくるには特筆するような、分かりやすい才能というのはないかもしれません。
しかし彼の仕事内容と彼の性格はかなりリンクしているように思います。
人が歩きやすいような動線を見つけること、より使いやすくするために開発内容を熟考すること。
駅というのは、人がいなければただの箱です。
駅が駅として機能するためには、電車が正常に動くこと、そこを利用する人たちが迷わずに乗るべき電車を見つけられること、です。
そして駅を利用する目的は一つ。
今いる場所から移動するためです。
行きたい場所に向かうため、家に帰るため。
過去と未来を繋ぐ場所というような意味合いもある気がするのです。
我々は一秒一秒未来に向かって進んでいるけれど、心は自由に過去の記憶に戻ることができます。
多崎つくるがしていることというのは、その道しるべをつくるようなものだと思うのです。
普段の生活でも、駅で迷う人はたくさんいます。
自分の乗り場が分からない人、何線に乗ったらいいのか分からない人。
そういう人たちがどれだけ素晴らしい才能を持ち合わせていたとしても、迷いの中から抜け出せなかったら意味がないと思いませんか。
多崎つくるは無個性かもしれない。
特別な才能は持ち合わせていないかもしれない。
だから、誰かの心を強く揺さぶったり、後世に受け継がれるような伝統なり芸術を残すことは出来ないかもしれない。
だけど、今生きている人たちの手助けをしているのだと思います。
この物語の世界で、多崎つくるの巡礼によって何が変わったかというと大きな事は何も変わっていないように思うのです。正直なところ、彼が今更過去の傷を癒そうとしたところで死んでしまった親友が戻ることはない。
人生の中には、悲しいけれど、そこを過ぎてしまえばどうにもならないというポイントがある。だから彼が今更巡礼をしたところで戻らないもの、起きてしまった歴史は変えられない。
ならばなぜ彼は巡礼をしたのか。
なぜ彼に巡礼をするように新しい年上の恋人・沙羅は促したのか。
もしも彼が巡礼をすることで変わることがあるとしたら、沙羅に対してなのではないかな?と思っています。
私は村上春樹作品もそうだし、こういうはっきりしない終わりが好きです。
というのは、何でも謎を解明することが善きことではないと思っているからです。
私たちは、食物とか家とか学校とか、そういうものがあるのが当たり前の世界に生まれたから、芸術とか才能とか正義とかそういうものに目を向けられる余裕があった。
だからついつい生きるのは当たり前で、それをどうやって良くしていくか、より楽しく、より豪華に、より悔いのないようにしていこうかと思ってしまうように思う。
だけどすごいシンプルな話、生まれてきたら生きる。それだけだと思います。
それが基本。それが基礎。大前提。 生きること。目の前の生身の人間と助け合って生きていくこと。そのための巡礼であるということ。人にはそれぞれ自分の信じたい世界があり、時には現実の世界が嫌でしょうがなくなってしまうこともあると思う。その為に色んな言葉を探したり逃げたり違う世界を求めてしまうことも、誰にだってある。だけどそれは現実の世界で生きるためなんだってことを忘れちゃいけない。
生きるための巡礼であるということを。