深夜図書

不定期に23:30更新しています。独断と偏見、ネタバレ必至ですので、お気をつけ下さいまし。なお、ブログ内の人物名は敬称略となっております。

雪国/川端 康成~この世界と黄泉の国の違いは?生者と死者の区別は?~

≪内容≫

無為徒食の男、島村は、駒子に会うために雪国の温泉場を再訪した。駒子はいいなずけと噂される好きでもない男の療養費のために芸者をしている。初夏の一夜以来、久々に会えた島村に駒子は一途な情熱を注ぐが、島村にとって駒子はあくまで芸者。島村は雪国への汽車で会った女、葉子にも興味を抱いていて…。「無為の孤独」を非情に守る男と、男に思いを寄せる女の純情。人生の悲哀を描いた著者中期の代表作。

 

 

 

正直私にはまだ早い気がした一冊でした。

かなり老成した物語のような気がして、ある種の境地に達したらものすごく響く気がするのですが、今はまだ、見えるけど届かない蜃気楼を眺めているような、そんな読後感でした。

 

この作品の連載が1935年から始まったとすると、川端さんはおそらく36歳。昭和初期の30代と現代の30代では時代もあって精神年齢や経験値もかなり違うと思うので、この物語が自然に自分に溶けるようになるのは、40代50代あたりな気がする。

 

現代でも、人に揉まれたり苦悩とともに生きてきた人にとっては年齢関係なく親近感が沸くかもしれない。

だけど、生きるエネルギーが満ち満ちている人にとっては「?」の連続なのじゃなかろうかと思う。

 

 

 

 

 

村上春樹と川端康成

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村上春樹の作品の主人公は巻き込まれ型である。

いつの間にか、彼女なり妻なり友だちなりが自分の元から消えていく。

そこで主人公は初めて動き出す、というのが割と定番の流れのように思います。

 

そして川端康成の本書の主人公・島村は自ら捨てる型のような気がします。

村上作品も川端作品も自分からコミットしないという点では同じ匂いを感じます。どこか人と距離がある。しかし村上作品の主人公は、巻き込まれて初めて事の重大さに気付き、相手を追いかけていきます。結果として相手を取り戻せるかは別にして、外面のクールさとは裏腹な内面の熱さがあります。

 

しかし川端作品は求める気持ちはあっても、芯の部分では諦めきっている気がするんです。人生を情熱的に生きたくても、染みついた諦念がそれをさせない。

「伊豆の踊り子」では自らの孤児根性への憂鬱から人を求めて伊豆に旅立ちます。

そこで他人との距離を縮めることには成功したと思うのですが、私の予想ではこの後、縮まった距離が更にどんどん縮まるかというとまた元に戻る気がするのです。

 

村上春樹の作品の主人公が痛みや冒険を通じて何かを手に入れるのに対して、川端康成の主人公は最初から最後まで観察者であり傍観者であるが為に、第三者という立場に居続ける気がするのです。

 

 

 

 

 

生きてる人間っている?

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 ホラーだとか霊だとか言うわけじゃないんですが、この作品に流れる空気感というか非日常感というか、あまりに生き生きしてなさ過ぎるというか。でも死んでるわけでもないという、でもファンタジーでもない。言うなれば温度がない、という表現になるかもしれない。

 言葉としては「温泉」「雪国」「やかんからの湯気」「涙」など、温度があるものはたくさん出てくる。冷たかったり、暖かかったり、熱かったり、そういうものがたくさんあるにも関わらず、それらがただの記号にしかなっていない気がするのです。それらの意味やそこに含まれる人物の温度は失われている。

 

 主人公の島村は「無為徒食の男」という時点で、無気力で生命力が旺盛でないことは分かる。それ故に芸者の駒子が泣いたりわがままを言ったり、酒を飲んで酔っ払ったりする描写は対比として生き生きと感じるのが普通のような気がするのですが、私には駒子も生き生きと感じることが出来ないのでした。

 「どうして?生きた相手だと、思うようにはっきりも出来ないから、せめて死んだ人にははっきりしとくのよ」

 これは駒子の言葉ですが、駒子も島村と負けず劣らずな気がしてならない。

確かに生きた相手に何かをすれば返ってくるものがある。

話しかければ答えが返ってくるように、それはお祝いのときもあれば呪いのときもある。

誰だって呪いは貰いたくない。

返ってくるものが呪いばかりなら、もういっそ曖昧にして何も与えず何も貰わない方が楽である。たぶん、誰だって生きていれば、もう誰とも関わりたくないと思ったことがあるんじゃないでしょうか。

煩わしい、面倒臭い、もう何もかもどうでもいい、・・・とか。

 

だけど、生きてくってことはそういうものを諦めちゃいけないってことを人は学校で勉強したのではなく、本能か、もしくは生活の中で手に入れている。

だから、時に逃げたり、やり返したり、やられる前にやってみたりする。

まず生きてる人間を超えて死者に向かうことはないでしょう。

 

生者と死者の違いを私たちは「肉体の消滅」もしくは「心臓の停止」だと考える。

だけど、この小説を読んでいると、果たしてそうなのだろうかと思えてくる。

気まぐれに沸き上がる諦念や厭世感なら、人生のスパイスにはなるだろう。だけど、それに支配されてしまったり、常に自分の核として存在するようになれば、肉体は活動していても、生者らしき熱は失われていくのではないだろうか。

 

 

 

 

川端康成って結構危険だと思う。

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ただ読者として文章を眺めている分には全く問題なく、それ以上に本当に美しい絶景であると思う。しかし綺麗な花も眺めている分には何ら問題がなくとも、その葉や根を食べれば死に至ることもあるのと同じで、この物語を味わい尽くそうとするとかなり危険なように思う。

女の体は空中で水平だった。島村はどきっとしたけれども、とっさに危険も恐怖も感じなかった。非現実的な世界の幻影のようだった。硬直していた体が空中に放り落されて柔軟になり、しかし、人形じみた無抵抗さ、命の通っていない自由さで、生も死も休止したような姿だった。 

 命の通っていない自由さで、生も死も休止したような姿だった

私はこの文章を読んだ後、相当の毒をくらった気がしてならなかった。

その通りだと思ったのです。

生きるってことは不自由なのです。

だから人は生きてる間に自由を探し求める。それは見つからないからなのです。もしも簡単に見つかるならとっくにコロンブスあたりが発見してるはずなのです。自由があるなら自由の女神なんて象徴に価値はない。

 

そして「生も死も休止したような姿」と部分では、生と死が同列に扱われているのです。生の終わりが死なのではなく、生も死も同じ位置にあるのです。

葉子は仰向けに落ちた。片膝の少し上まで裾がまくれていた。地上にぶつかっても、腓が痙攣しただけで、失心したままらしかった。島村はやはりなぜか死は感じなかったが、葉子の生命が変形する、その移り目のようなものを感じた。 

 前回の記事伊豆の踊り子/川端 康成であげた「青い海 黒い海」での男は≪時に、一枚の蘆の葉になり、濁ったガスになり、化粧水にな≫った。

 

たぶん川端康成の見ている世界では、生者と死者というのはかなり近いところにいるのだと思う。

肉体が傷つき、心臓が止まる。そうすれば次に起こるのは腐敗であり消滅である。私達が生者と死者を区別するときは、心臓の音、体温、肉体の動き、肉体の色、すなわち五感を意識して使う。五感で捉えられるもので判断する。

 

では魂は?

魂は見る事も触る事もできない。すなわち色も温度も動きもない。

そういったものを人は信じない。

もちろん主人公の島村にも見えない。

だけど、感じることが出来るのだ。「生命が変形する、その移り目のようなもの」を。

 

 

私はつくづく川端康成がノーベル文学賞をとったことに対して疑問を感じる。もちろん文章の美しさには胸を撃たれてうっとりしてしまう。彼が描く世界はすごく美しい。だけど毒も相当に含まれている気がしてならない。

こういう作品はバタイユのようにひっそりとカルト的な人気である方が健全な気がしてしまうのです。

というか、こういうエロティシズム的な生を輝かせるために死があるような思想は、世間が生を絶対にしているから輝くのであって、世間の大半が生と死の境に対して「だよねーうちら結構仲良しだよねー」となってしまうと萎れてしまう。

 

憂鬱が生まれるのは太陽が近すぎるからかもしれないけど、だからこそ憂鬱は輝くのであって、憂鬱が太陽になってしまえば憂鬱は消えてしまう。

 

人が死を恐れるから、死とは何か?死はそれほど怖いものなんじゃないか?という視点が生まれる。そこで、否定派と肯定派が生まれて相乗効果で輝いていくのが生命だと思っているので、個人的に、「雪国ってちょっとやばいな」っていう位置に居てほしかった・・・という謎の腑に落ちない感じ。

 

 

ていうかグダグダ書いたけど、ノーベル文学賞の作品ほとんど読んだことなかったし、自分の中で勝手にヤバイ小説って位置づければいいだけの話だよな、って今思いました。