深夜図書

書評と映画評が主な雑記ブログ。不定期に23:30更新しています。独断と偏見、ネタバレ必至ですので、お気をつけ下さいまし。なお、ブログ内の人物名は敬称略となっております。

サリンジャー戦記/村上春樹・柴田元幸~キャッチャーはかなり怖い本です~

≪内容≫

サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』の新訳を果たした村上春樹が、翻訳仲間の柴田元幸と共にその魅力、謎、すべてを語り尽くす。ホールデン少年が語りかける「君」とはいったい誰なのか?村上が小説の魔術(マジック)を明かせば、柴田はホールデン語で、アメリカ文学の流れのなかの『キャッチャー』を語ってのける。永遠の青春文学の怖さ、ほんとうの面白さがわかる決定版です。「幻の訳者解説」併録。

 

 

 『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を語り尽くすと言っても、ちょっとくらい他の作品のお話があるだろう、と勝手な期待をしてたんですが、ほとんどなかったです。サリンジャーの生い立ちや時代背景についてはありましたが・・・。

 もう再読することはたぶんないだろうと思っていたライ麦ですが、これ読むともーれつに読みたくなってしまって、次は村上春樹訳で読んでみようと思います。

 

 

 

 

 

『キャッチャー・イン・ザ・ライ』とは

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 有名なのはジョンレノンを射殺したチャップマンと、当時のアメリカの大統領だったレーガンを銃撃したジョン・ヒンクリーの愛読書だった・・・ということでしょうか。

 

 『キャッチャー・イン・ザ・ライ』がこの二人の何に触れたのか。

まず、キャッチャーの紹介文にもあるように「インチキ野朗は大嫌い!」とあるわけで、主人公のホールデン少年(16歳)はそんなインチキ野郎どもが造り上げた社会やシステムを前に立ち止まります。

 ホールデン少年は「インチキ野朗は大嫌い!」→「じゃあ俺がシステムをぶっ壊して造り上げる!!」っていう思考ではなく、『気ちがいのぼく』にあるように「みんなが正しくて自分が間違っているのは分かっている」けど、それをそのまま素直に受け入れることが出来ない、という少年です。

 

 じゃあどうすればいいのかってことは『キャッチャー・イン・ザ・ライ』には書かれていません。(これに限らず小説は答えを示唆するものとは限らない)

 

 だからこそ、読み手にもある程度のリテラシーが必要不可欠なのです。

そういう意味では、何度も繰り返すようだけど、この本はかなり怖い本です。ちゃらちゃらしたブルジョアの坊ちゃんの神経症的なうだうだ話というものでもないし、イノセントな若者が偽善的な社会に反抗する話というのでもない。自己というものを、この世界のどこにどのように据えればいいのかという命題を、真剣に探求している本だと思います。 

 ジョンレノンを射殺したチャップマンは殺害動機として最近のジョンレノンが「キャッチャー」に出てくる人物たちのようにインチキで見下げた人間になり下がっているから、彼を撃つことでイノセンスを護ろうとした、と主張したらしい。

 

 本書を読んだ人の中にはホールデンと同じ、もしくはそれ以上のインチキへの軽蔑が沸き上がるかもしれない。本書にどうすればいいのかということが書かれていないまま終わったことで、チャップマンはホールデンの苦しみをそのまま自分に投影してしまったのだろうと思う。それはなぜか。たぶん自分でその続きを作ることが出来ないからだと思う。

 

 「読む」ということと、「なぞる」ということが、どれだけの違いを生むのか。その違いが顕著に出るほどリアルに芯に迫って来るのが「キャッチャー」であり「ホールデン」なのだと思う。

 

 

 

 

 

イノセントを守ることとペドフィリア

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 ホールデンの夢、それはライ麦畑から落っこちそうな子供を捕まえること。

 しかし、客観的に見ると、ホールデン自身がライ麦畑から落っこちそうな子供であり、それを捕まえようとしたアントリーニ先生に対してホールデンは心を閉ざしてしまう。

 眠っていたホールデンの頭を撫でていたアントリーニ先生に驚いて家を飛び出してしまうホールデンはアントリーニ先生に何を見たのか。

 

 ここで思い浮かんだのが「ナイン・ストーリーズ」の収録作品「バナナフィッシュにうってつけの日」の中でシーモアが幼女シビルのかかとにキスするシーン。

 

 私はこの描写に何の意味が?ていうか、知らない子供と仲良くなったとしてかかとにキス???シーモアってもしかして???と正直思った。

 とはいえ、さして重要な描写でもなさそうだったので深堀しなかったのですが、二人の対談を読んで、ああそういう考えもあるのか・・・と思いました。

「ライ麦畑の捕まえ手」になるということは、つまりイノセントなるものを危害から守るという大義名分があるんですが、それと同時に、下手すれば少年愛、幼児愛みたいなゆがんだ方向に行っちゃうんじゃないかというような不安感も、本人の中に潜在的に少しはあったんじゃないかという気がするんです。

 

 ホールデンというのは常に二極化した選択肢に気付いていて、だからこそ文句は言うけど羨望があったり、信頼したいけど些細なことで逃げてしまう。

 まっすぐにしろ寄り道にしろ、進むためにはどちらかに振れてると思うんですよね。別にふっきれなくてもいいけど、真ん中にいたのではどちらにも行けないから。

 

あ~この二人すごく頭がいいんだろうな~と思って読んでました。すごく読みやすいし、すごく言ってることがすんなりと入ってきます。難しい言葉や専門用語じゃなくて、普通の会話を聞いてるみたいなのであ~そういう視点があったんだ、なるほどなぁ・・・。って思いながら読んでました。 ただ、絶対、これだけは絶対ですが、『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を未読な人が読むと先入観が絶対拭えなくなると思うので一度読んでから読むのがいいです!他人の視点や感想という名のノイズは本当に雑音だから。まずは読む。自分自身が分からんでも読んでみる。それが一番大事。どんなに有名な作家や批評家の言葉も初見の可能性の前では雑音でしかないから。