≪内容≫
チェコの60年代ヌーヴェルヴァーグの傑作。女の子映画の決定版! 2人の名前はともにマリエ。適当な名を名乗り、男たちを騙しては食事をおごらせ、嘘泣きの後、笑いながら逃げてしまう。名前も嘘だし、姉妹かどうかもよく判らない。部屋の中で、牛乳風呂を沸かし、紙を燃やし、ソーセージをあぶって食べる。グラビアを切り抜き、ベッドのシーツを切り、ついにはお互いの身体をちょん切り始め、画面全体がコマ切れにされる。色ズレや、カラーリング、実験的な効果音や光学処理、唐突な場面展開など、あらゆる映画的な手法が用いられ、衣装や小道具などの美術や音楽のセンスも抜群。60年代的な自由に満ちあふれた作品だ。
チェコ映画といってもチェコ・スロバキア時代の映画です。
予告ではおしゃれーなところだけ抜粋されてますが一番最初から爆弾出てきます。燃えてるシーンから。これはサブリミナル効果的な感じで何度か出てきます。なので、監督が単純におしゃれ映画とした訳ではないってことです。
過食という代替行為
二人のマリエはひたすら食べています。
私の中で彼女達が必死に現実を受け止めようという行為に見えます。でも食べても食べても満たされない。理性では従うべきとわかっても心まで良い子にはなれない。
彼女達はついにお風呂の水もミルクにして浸かりながら舐めています。卵もウインナーもはさみでチョキチョキして食べる。畑のトウモロコシだって盗んで食い散らかして通りに食べカスを撒き散らす。最後にはパーティ会場に忍び込んで、バレないように、舐めて、飲んで、手でぐちゃぐちゃに潰して、叩きつけて、踏みつけて・・・
そして海に投げ落された二人は「いい子にするから助けて!」「私たちバカなのよ!救いようのないバカなの!」と叫びます。
そしてグジャグジャにしたパーティ会場の片づけをします。
割れたお皿の破片を合わせて、汚れたナプキンをちゃんと畳んで、そしてキレイになったテーブルの上で「幸せ」と言うのです。
彼女達に声をかけるのは欲に塗れた男だけ。畑の主人も、通りを歩くスーツの男性もみーんな無視。
「誰も私達に気がつかないわ」
ここで彼女達の孤独も置かれた状況も一気に溢れ出してきます。
彼女達は壊れた食器も汚れたナプキンもキレイになると思っています。元に戻れると思っています。壊れたら終わり、汚れたら終わり、そんな使い捨てのような社会の考えとは真逆なのです。
ここで彼女達はとても丁寧に壊れた食器も汚れたナプキンも整えます。その慈愛に満ちた表情はとてもただの悪戯っ子とは思えません。
社会に要らない存在の人間が一番キレイなものを知っている。
「サラダを踏みにじられただけで気分を害する人々にこの映画を捧げる」と最後にタイプレコーダーが撃ち込まれ終わります。
Girl Meets Girl
私は女の子2人組の話が大好きです。
「砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない A Lollypop or A Bullet」や「少女には向かない職業」「小さな悪の華」など。そしてもちろん本作も。
少女の中にはとても早い段階で社会の空気、自分の立ち位置に気付く子がいます。それは自分で気付いたり、友達から言われたり、大人から言われたり。
たくさんの羊の群れの中にいながらどうしようもない孤独を感じたり、やりきれないふがいなさを感じたり。
そんな孤独を分かち合える友達と出会った時、ひとつの世界が生まれるのです。そしてその世界がとても健気で悲しくて美しいのです。女性の女性らしさとは「気付く力」と私は思っています。
いち早く自分の存在価値に気付いてしまう。そして自分と似てる子というのも分かってしまう。
彼女達は時に笑いながら泣き、泣きながら夢を見て、嘘をつきながら理解を求めます。一人ならとっくに壊れてしまっていたかもしれない今日も二人なら乗り越えられる。世界を変えられる気がする。そして新しい世界を作りはじめる。
聡明な彼女達は「無謀」という言葉を知っています。少年の様に純粋に無謀な事を100%信じて立ち向かう事は出来ない。でも、だからってこのままではいたくない。
王子様なんて来ない。ハッピーエンドなんて嘘。愛なんて信じない。それでもSOSは垂れ流しの状態。少女の華奢で柔らかく、いつだって不安げな瞳はとても切なく美しい。
何でしょう、私の中で少女二人って決して仲が良いとか親友ではないんです。どちらかというと戦友とか同士とか仲間みたいな。
少女と少年の孤独が出会えば恋になり、少年と少年の孤独が出会えば強さに変わる事が出来る。
でも少女と少女の孤独は弱くって非力なまんま。大人になって実弾を持てるまで生きれるかどうかわからない、そうゆう儚さをすごく感じてしまうんです。
男が強い、女が弱いってゆう極論ではなくて、女性と言うのは色んな事に気付いたり悟ってしまうが故に自ら攻撃や逃走に至るまでストッパーが男性より多いと思うのです。
攻撃しなければ死んでしまう状況でも砂糖菓子の弾丸を撃ち続けた藻屑のように。
従わなければ殺されてしまうと分かっても壊れた食器を慈しむマリエ達のように。
ひなぎくが愛される理由
私が観に行った会は満席で、客層はやはり女性が9割。付添の男性がちらほら・・・って感じでした。ただ、女性は割と幅広く20~50代という大人な印象でした。みんな喋らずしーんとしてました。新宿ピカデリーでは有り得ない静けさ・・・
なんでしょうね?
私ももう一回観たいとは思いますが、理由としては共感したいからだと思います。
よって、楽しいときとか充実してるときには必要としないけど、不安定なときには観たい。
とびっきり悲しいんじゃなくて、とびっきり楽しいんじゃなくて、悲しくもない。楽しくもない。そんな空虚なとき。
二人のマリエが「悲しくったって笑うのさー」「居場所がないなら悪戯してでも見つけてもらうんだよー」って画面の中から励ましてくれるような気がして。そこにかわいらしい二人と部屋とファッションが瞳も癒してくれる。
恋人といたって、家族といたって、親友といたって、どうしようもなく空虚なとき。孤独ではなくて、悲しみでも苦しみでもない。
そんな時には空虚なままで観てほしい。
二人のマリエが画面の中からやさしく見守ってくれる筈です。