≪内容≫
青い霧に閉ざされたバラ咲く村にバンパネラの一族が住んでいる。血とバラのエッセンス、そして愛する人間をひそかに仲間に加えながら、彼らは永遠の時を生きるのだ。その一族にエドガーとメリーベルという兄妹がいた。19世紀のある日、2人はアランという名の少年に出会う…。時を超えて語り継がれるバンパネラたちの美しき伝説。少女まんが史上に燦然と輝く歴史的超名作。
これを読んでいて思い出したのが小野不由美著の「屍鬼」とモーニング娘。’14×アンジュルムの舞台「LILIUM-リリウム 少女純潔歌劇-」
↓オチがたまらなく好き
演劇女子部 ミュージカル「LILIUM-リリウム 少女純潔歌劇-」 [DVD]
- 作者: モーニング娘。’14 メンバー×スマイレージ
- 出版社/メーカー: アップフロントワークス(ゼティマ)
- 発売日: 2014/09/24
- メディア: DVD
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「LILIUM-リリウム 少女純潔歌劇-」に関しては「ポーの一族」の影響を受けているようですが、「屍鬼」はスティーヴン・キングの「呪われた町」へのオマージュであると後書きで触れられています。
けれど、やはり吸血鬼モノというのは「人ならざるものの孤独」に焦点が当てられますね。
ポーの一族の主人公エドガーの孤独。
屍鬼の沙子の孤独。
二人とも望んで吸血鬼になったわけではない所も同じです。
死という絶対
死が人を輝かせるなら、永遠の生は永遠の影の存在。絶対に手に入らない人間の絶対である死。人は死ぬから強くなれる。死ぬまでに何をするか、死まで誰と共に生きるか、自分が死んでも子供が生きていけるようにどんな教育しようか。「死ぬよりはマシだ。」「上手くいかなかったら死ぬまでだ。」「死んで詫びる」「死守せよ!」など、人は無意識に死によって支えられているし、死を基準に生きている。死というゴールに向かって生きている。死があるから永遠に焦がれる。
永遠の旅人の孤独は想像を絶することだろう。
昔はもっとたくさんのことを知っていたのだけれど
例えばあの幸福な婦人や銀の髪の少女やロビン
こうしてると時はもどるのにみんなどこへいってしまったのだろう
なぜ今 今 ここにいないのだろう
(小鳥の巣)
この一節に込められた純粋な子供のままのエドガーの想い。
何百年生きようと、何を知ろうとバンパネラになった年齢のままエドガーの心も止まってしまった。人は社会の中で年相応の所謂大人になっていく。社会に入らなければ何年生きようと大人にはなれないのだ。
メリーベルと沙子
主人公エドガー少年とその妹メリーベル。
二人はエヴァンズ伯爵の愛人の子供。
メリーベルを産んですぐ亡くなった母に代って伯爵が面倒をみると申し出たが、正妻はこれを嫌がり乳母に殺すよう命じる。
殺す事が出来なかった乳母は森に二人を置き去りに。
そしてバンパネラの一族、ポーの一族に育てられるのだった・・・。
ある日、バンパネラになる儀式を目撃してしまったエドガーはメリーベルの命と引き換えに一族に入るよう強要される。
メリーベルを一族にいれない事を約束にエドガーはバンパネラになった。
そんな経緯なのでバンパネラになった自分に苦しむエドガー。
愛してやまないメリーベルの幸せを願い、両想いとなったユーシスに任せ一族と共に去ろうとしますがユーシスが自殺。その後ユーシスを殺したのがエドガーだと告げられてもエドガーに着いて行く事を決めたメリーベルは一族の仲間になる。
こんな兄妹愛あるか?とも思うのですが、これは兄弟愛以外の何者でもないんですよね。そこに一切のいやらしさも不純も感じさせない、エドガーもメリーベルもお互いが唯一無二の存在で絶対なんだろうなと。
たくさんの人間の人生に関わってる二人ですが、一度エドガーが記憶喪失になりメリーベルが思い出させようとするシーンがあります。
そこのメリーベルの台詞は屍鬼でも出てきました。
十字架 あれに含まれている信仰が怖いの
わたし 父さまやエドガーのように平気でそれにふれられるほど強くはないわ
(メリーベル/エヴァンスの遺書)
信仰というキーワード。
沙子もメリーベルもなぜ十字架を恐れるのか。
エドガーも人狼の辰巳も恐れずにいられるのに、二人はなぜ脅えるのか。
信仰は人々を束ねる。同門の隣人は血の繋がりはなくとも信仰という縁によってまとめられた同期だ。信仰は慈愛を説き、博愛を説く。この団結は・・・(省略)圧倒的多数の無意識という神性によって束ねられ縒り合わされ、太くモラルと法と常識という強固な絆を作って、人々を調和の中に編み上げている。
「その中に君たちは決して入れない。君は十字架が怖いんじゃない。その背後に、寸分の間隙なく束ねられた人類を見るんだ。そうしてそこから、永劫閉め出された自分の孤立を悟る。」
(屍鬼/室井静信)
沙子もメリーベルも幼くして吸血鬼となった。
沙子は客人に襲われ起き上った。わけも分からず起き上った沙子を家族は殺す事は出来ず陰ながら沙子を生かし続けた。
メリーベルもエドガーという絶対的な存在に導かれて一族に入った。
二人とも人間に絶望したり、憎んだり、傷付けられたりする前に吸血鬼になってしまった。だから人が恋しい。
あきらめきれれば平気で触れられるのに、脅えずに済むのに。
愛を乞うだけの純粋な子供のままでは大人になるまえに殺されてしまう。
どんな世界でも砂糖菓子の弾丸では何も撃ち抜けないから。
アラン
アランは港町を取り仕切ってる貿易商会の子息とあってやりたい放題です。
けれど家庭内は複雑でアランの心の拠り所は母のみ。
しかしそんな母も危篤状態に・・・。
だれかそばにいて ひとりではたえられない・・・!
(アラン/ポーの一族)
メリーベルを殺され、アランも目を覚まさない状態のエドガー。
きみをつれてきたのがまちがいだったとしても
ぼくが生きてはいけないものだとしても
たのむから目をさましてー
おいでよ おいで おいで
一人ではさびしすぎる
(エドガー/ペニーレイン)
主人公エドガーの持つ孤独は半端じゃないです。バンパネラになった経緯も、その血の濃さも、メリーベルの為バンパネラになったのに人間に殺されてしまった過去も・・・。
アランはエドガーのメリーベルへの思いに対して嫉妬したりスネたりしますが、エドガーにとってアランはメリーベル亡き今エドガーにとって一番の存在なのです。
メリーベルもアランも血が薄く病弱なのがエドガーにとってはまた一人になってしまうのではないかという不安を抱かせるのです。
エドガーは血が濃く死ぬことがきっと難しいのでしょう。だからこそ誰よりも強かで優しいのです。
エドガーは永遠の旅路の中で大人になれずに死んでしまう子供と、純粋なまま生きていける子供がいることを悟ります。
そして何年か様子を見て大人になれるならそのまま大人に預け、死んでしまうなら仲間にしようとします。しかし、迎えに行ったロビン・カーはエドガーの迎えの前に死んでしまったのです。「エンジェル ヒア」=「エドガー!僕はここだよ!」という意味合いでしょうか。自分を待ち焦がれ飛び立ってしまったロビン。もしも、もっと早く迎えに来てたなら。孤独を知っているから人一倍優しく、痛みも分かってしまう。
だけど、だからこそアランの孤独は理解出来なかったのかもしれません。
エドガーにとってはアランもメリーベルもロビンも等しく大切なのです。
人が誰か一人と永遠の愛を誓うなんて事は自分の悲しみを増やし、相手も悲しませるだけだと知っているから。
エディス
アランが心奪われた女性。彼女を救おうとして、仲間にしようとして、はたまた自分の罪を軽くしようとして・・・結果消えてしまった。
エディスはアランが救おうとして助けられなかったシャーロッテの妹。
純真無垢なエディスにアランは自分がバンパネラという事を忘れ恋をします。
けれど、エドガーの助言もあり「今だけ」と割り切って付き合おうとしますがそこでエディスの兄達が殺人と窃盗の疑いで逮捕されてしまいます。
涙するエディスを何とか助けたいアランは仲間にして一緒にいようと決めますが、アランの力では仲間に出来ない。
エドガーに話し助けてもらおうとするが・・・
だから?きみ幸福にできるのかエディスを?
ロジャーやヘンリーや学校から引きはなしてもそれ以上に?
好きなら好きなほど
愛してれば愛してるほど
きみは後悔するんだ
幸福にしてやれないもどかしさに!
(エドガー/エディス)
胸が苦しい・・・この言葉が出るまでに何度も何度も味わってきたであろう苦しみ。
またアランにはこんな思いをしてほしくないという愛情。
愛し方は人それぞれで、どんな時もそばにいて寄り添うことを愛という人もいれば、どんなに遠く離れても見守り続けることを愛という人もいる。
アランの選択はきっと同じ人間なら簡単な話だった。破局しようが、結婚しようが人間ならやり直しも出来る。けれど一度バンパネラになってしまえば取り返しはつかない・・・。
誰かにとって一番の存在になりたい。誰かを守りたい。一緒に生きていきたい。人間の当たり前の感情ですね。アランもまた子供のままバンパネラになってしまったから、人間とバンパネラの区別がつかないんでしょう。理屈では分かっていても、感情がついていかない。エドガーが自分を大切にしてくれているのもわかっている。でもそうじゃない。そうじゃなくて、自分もまた誰かを愛し愛されたいのだと。それが間違っていても愛してみたいのだと。結果愛じゃなくてもやってみないと分からない。けどそれで本当にいいのか・・・?
アランは自分の心が大きな局面を迎えたところで消えてしまった。
そしてまた一人ぼっちになってしまったエドガー。この時の描写も本当に鳥肌立ちます。自分は何一つエドガーとかぶってるところなんてないのに、猛烈に悲しい。けれどこれで良かったのかな・・・とも思えてしまう。
エドガーは消えてしまったのか、どこかでまだ生きているのか・・・
続編が出た!とのことなので生きているのか・・・アランとの話なのか・・・
キリアンの続編なのか・・・
萩尾先生の作品ですごいなと思うのが主人公が終始ブレずに魅力的なところです。他にもサブキャラがたくさん出てくるしそれぞれキャラが立ってて魅力的なのに主人公が圧巻の存在感なんです。(11人いる!のタダもフロルという強烈なヒロイン?がいるにも関わらず存在感や魅力がブレない。)私は結構主人公よりサブの方が好きな質なのでかなりびっくりしています。ナルト以来の衝撃です。
主人公がとても人間臭いからなのかなぁ?言いたいこと言って、それで傷付いて、傷付けて、それでも一人が寂しくって求めてしまう弱さもあって・・・。強いとか弱いとか優しさとか卑怯とか基準はどこにもないけれど、傷付きたくない、傷付けたくない、じゃ一人ぼっちと同じじゃんかと思ってしまうので、ぶつかりあうことで繋がろうとする人間は大好きです。
その為に、自分の気持ちをより相手に正確に伝える為に、言葉や表現を日々勉強中です。
もしも、もしもエドガーと会えたら彼の為に薔薇を育てプレゼントしたいな。
おまけ・・・
「誰が殺した?コック・ロビン」や「オレンジとレモン」などイギリス民謡が引用されていたのでこれは何かの暗喩!?と思い調べてみるのにこの本をよんだのですが
とても面白かったです。
イギリス人にとっては「誰が殺した?」は人間が死んだ時はもちろん、政治運動の命脈が途切れた時などにも原因究明の論説の題名や見出しに用いられている様。
英語とか勉強するのもいいけど、その国の歴史とか民謡という土台を知ることでニュアンスっていう言葉では得られないものが得られるよ!っていう話なんですが、歴史とか調べるのも退屈な私はマザーグースで民衆の生活から歴史を知る方が楽しいなーと思い読んでました。
日本でも当たり前に「むかしむかしあるところに・・・」と誰かが言いだしたら「おじいさんとおばあさんが住んでいました」と答えられるだろうし
「かーごめかーごめー」と歌いだされたら「かーごのなーかのとーりーは」と歌えるだろうし
女の子には「男の子は皆狼なのよ」とか言いますし。
でもそれって辞書には乗ってないし、歴史の教科書にも載ってないんですよね。こうやって一つの本に出会うと枝分かれして色んな本に導かれていくんですよね。
読書って本当に面白い。尽きない旅の様で。