32歳になっても幼児なみの知能しかないチャーリイ・ゴードン。そんな彼に夢のような話が舞いこんだ。大学の先生が頭をよくしてくれるというのだ。これにとびついた彼は、白ネズミのアルジャーノンを競争相手に検査を受ける。やがて手術によりチャーリイの知能は向上していく…天才に変貌した青年が愛や憎しみ、喜びや孤独を通して知る人の心の真実とは?全世界が涙した不朽の名作。著者追悼の訳者あとがきを付した新版。
名作と名高い本書。
ヒューマンドラマかなーと思っていましたが、SFの部類ということでますます興味がわき読んでみる事に。
全世界が涙した・・・と書かれてるけど、何の涙なのかよく分からない。
感動の涙?悔し涙?悲し涙?
チャーリィの未来を感じての涙?
私は泣いたらチャーリィから「泣くのは君が僕とは違う人間だと思っているからだ。」と言われそうな気がしてならない。
この話は感動の話じゃなくって息をするように当たり前になっている無意識の差別にチャーリィが警告を鳴らしてるように思えてならない。
そして、自分もまたその一人なんだと痛感した話だった。
チャーリィ
知的障害を持つチャーリィは手術を受け、平均以上のIQを手に入れた。
そこで過去の自分が受けた様々な事柄の本質を知る。
バカにされていたこと、拒絶されてたこと、笑われていたこと。
そして、今のチャーリィは昔のチャーリィと同じ精神遅滞児を笑う連中の仲間に自然と入っていた。
人々が私を笑いものにしていたことを知ったのはつい最近のことだ。それなのに、知らぬ間に私は私自身を笑っている連中の仲間に加わっていた。そのことがなにより私を傷つけた。
(前略)まわりにいる人々が言っていることに楽しそうに、心もとなさそうに笑っているチャーリィ を夢や記憶の中に見た。
鈍い頭脳ながらも、自分が劣っていることは知っている。他の人たちは自分にない何をかー自分を拒否する何かを持っている。
知能的盲目の身でそれがとにかく読み書きの能力と関係があるのだと信じていた。それらの能力が得られれば、知能も得られるのだと思っていた。
読み書きの能力が得られても、感情が追い付かなければ分かりあえない。
彼は「りこう」になれれば分かりあえると思ってた。
そして彼は「りこう」になったけど、分かりあいたいと思ってたパン屋の皆からは嫌われ、締め出され、彼の父は彼に気付かず、彼の母も彼を認識せず。
彼はどこまでも孤独だった。
知能さえ得られれば、皆の話してる内容を理解した上で笑ったりふざけあったりする事が出来る。
ニュースとか政治とかそんな雑談を楽しく交わせるようになれる。
それが彼の望みだったけれど、「りこう」の先にはそんな光景は広がっていなかった。
知能と経験値
知能だけではなんの意味もないことを僕は学んだ。
あんたがたの大学では、知能や教育や知識が、偉大な偶像になっている。
でもぼくは知ったんです。
あんたがたが見逃しているものを。
人間的な愛情の裏打ちのない知能や教育なんてなんの値打もないってことをです。
ぼくの知能が遅滞していたときは、友だちが大勢いた。いまは一人もいない。そりゃ、たしかにたくさんの人間は知っている。ほんとうにたくさんの人間をね。でもほんとうの友だちは一人もいやしない。パン屋にいたときはいつもいたのにね。
僕に何かをしてくれようという友だちはどこにもいないし、ぼくが何かをしてやろうという友だちもいない。
手術のプロジェクトの主任であるニーマー教授に訴えるチャーリィ。
彼の早急な成長には彼と特別な関係であるアリスもついていけなかった。
知能だけが先走って感情は小さな頃のままなのだから、鼻もちならない嫌なヤツに映ってしまってもしょうがない状態になっていたチャーリィ。
大人になるということは、大人になるまでの月日がきちんと経験として蓄積されているかによると思う。
経験の少ない見た目だけの大人は子供っぽい。
経験が少ない子供がもっともらしい事を並べてもどこか嘘くさいもの。
経験とは目に見えないけど、その人を支える後光のようなものなのだ。
経験を得るより早く知能が発達してしまったチャーリィに、望んでいた景色は追いつけなかった。
無意識下の差別
恩知らずに聞こえようが、私がここで憤懣やるかたないのはそれなのだ
ーつまり私をモルモット扱いする態度である。
現在のような私を作りあげたという、あるいは将来、私のような人たちも本当の人間になれるというニーマーの口癖である。
彼が私を創造したのではないという事実をどうしたら理解させられるだろう?
精神遅滞者にも人間の感情があるのだということを理解しないがゆえに彼らを見て笑う人々と同じ過ちを、ニーマーも犯しているのである。
私がここへ来る前も人間であったことを彼は認識していない。
イジメる側が「イジメてるつもりはなかった」というのに似てると思う。
ニーマーは自分の研究や地位に必死でチャーリィを実験の道具として使ったのだろうという事は内容から読み取れるが、彼がチャーリィを「人間扱い」していなかったかと考えると分からない。
「人間扱い」とはそもそもどういう事なのだろうか?
チャーリィにとって下線で引かれた部分の発言でそう感じたことは明らかだし、私もニーマーに対し、なんて傲慢な人なのだろうと思う。
けれど、自分達はどうなのだろう?
この「経過報告」を読み、理解出来るIQを持つ我々はチャーリィに対してどう思っているんだろう?
果たしてそれは絶対に差別ではないと言えるのか。
寧ろ、人の人生にどうこう思うこと自体ナンセンスなんじゃないかとも思ってきた。
この本が読める人達は絶対にチャーリィと同じ位置には立てない。
例えチャーリィをバカにしていなくても、人間扱いしてると宣言出来ても「平等」ではない。
私達はコロシアムの観席からチャーリィとアルジャーノンの一生を見下ろして、自分勝手に悲しんだり感動したりして、自己満足に浸っているだけじゃないか。
チャーリィは自分の知能が低下していく中で経過報告にこう残している。
キニアン先生もしこれを読んでもぼくをかわいそーとおもわないでください。先生がいったようにぼくわりこうになるための二度目のきかいをあたえてもらたことをうれしくおもていますなぜかというとこの世かいにあるなんてしらなかったたくさんのこともおぼいたし、ほんのちょっとのあいだだけれどそれが見れてよかたとおもているのです。それからぼくの家族のことやぼくのことがよくわかたのもうれしいです。みんなのことをおもいだしてあうまでわ家族なんかいないのとおんなじでしたけれどいまわ家族もあることがわかっているしぼくもみんなみたいな人間だとわかているのです。
彼に対して「かわいそう」と思うのは彼に対しての侮辱にしかならない。
「私も君と同じだよ」なんてどうやったって嘘にしかならない。
だから私達がこの本を読んですることは泣くことでも感動することでもなくって、チャーリィの大切な友達のアルジャーノンに花束をそなえてやることだけだ。
政治や美術の話で分かりあえなくても、友人のお墓に花をそなえること。
友人の友人の死を悼むこと。
それは出来る。
同じ人間なのだから。