≪内容≫
「真夜中は、なぜこんなにもきれいなんだろうと思う」。わたしは、人と言葉を交わしたりすることにさえ自信がもてない。誰もいない部屋で校正の仕事をする、そんな日々のなかで三束さんにであった―。究極の恋愛は、心迷うすべての人にかけがえのない光を教えてくれる。
孤独な魂がふれあったとき、切なさが生まれた。
その哀しみはやがて、かけがえのない光となる。
多分、主人公の冬子が思う真夜中の光はそういう夜光のような物質的な光ではないんだろうと思う。
光
真夜中は、なぜこんなにもきれいなんだろうと思う。
それは、きっと、真夜中には世界が半分になるからですよと、いつか三束さんが言ったことを、わたしはこの真夜中を歩きながら思いだしている。
光をかぞえる。
夜のなかの、光をかぞえる。雨が降ってるわけでもないのに濡れたようにふるえる信号機の赤。つらなる街灯。走り去ってゆく車のランプ。窓のあかり。帰ってきた人、あるいはこれからどこかへゆく人の手のなかの携帯電話。
真夜中は、なぜこんなにきれいなんですか。
真夜中はどうしてこんなに輝いているんですか。
どうして真夜中には、光しかないのですか。
(中略)
昼間のおおきな光が去って、残された半分がありったけのちからで光ってみせるから、真夜中の光はとくべつなんですよ。
そうですね、三束さん。なんでもないのに、涙がでるほど、きれいです。
真夜中という真っ暗な世界だからこそ光が見えるんですよね。
夜の星は朝が来て夜が来るまで消えてしまうのではなくて、空にそのままいるんですけど、昼間の光で見えなくなっちゃいます。
雨が降ってるわけでもないのに濡れたようにふるえる信号機の赤。つらなる街灯。走り去ってゆく車のランプ。窓のあかり。帰ってきた人、あるいはこれからどこかへゆく人の手のなかの携帯電話。
真夜中の光がきれいなんじゃなくて、真夜中だから光に気付ける。
日中にも光を見つけられる人はいるけど、冬子には分からなかった。
真夜中の光は明確だからきれいなんだと思う。
冬子は三束さんに会って、真夜中の光を三束さんに見るようになった。
だから三束さんは吸いこまれて消えちゃったんだろうな。
光は最後まで残らないから。
物に吸収されて消えてしまうから。
わたしはいつのまにか、誕生日の夜だけではなく、ほかのなんでもない夜でも、それから昼でも、朝でも、家をでて散歩をするようになった。なんでもない光のなかを、あの夜とおなじような気持ちで歩くようになっていた。
三束さんと二度と会えなくなった冬子。
三束さんと出会い、恋をして、失って、真夜中の光と同じようにありふれている光にもきれいに思える自分に出会った。
「すべて真夜中の恋人たち」は恋愛小説とも言いたくないし、友情の話とも言いたくないし、青春でもないし、ミステリーでもない。
冬子という仕事だけをして、やりたい事も、仲の良い友達も、恋人もいない孤独な女性が三束さんと聖という二つの光に出会って違う色へ変化していく物語だと思うので、「恋愛」や「友情」に焦点を当てると何度も出てくる「光」の表現や、物理的な説明も無視する事になると思うので、人間ドラマとして見るのがいいと思う。
冬子×聖
消極的な冬子と積極的な聖は正反対だが、聖はなにかと冬子の面倒を見たがる。
冬子は来るもの拒まずで、最初は相槌だけで会話をしていたが、三束さんに恋をするようになって、聖に質問したり会話をするようになる。
そして、三束さんと食事に行く時に聖からもらった服で全身を包み、出かけるのだった。
ただわたしは、あなただって皮一枚めくったらそのへんのどこにでも転がってるお粗末な欲望でぐちゃぐちゃなくせに、自分がそれをできないからって、ごまかして都合のいい物語をくっつけてうっとりしてるのをみるとむかつくってだけの話よ。
わたしが寝る寝ないの話したとき、わたしのことを馬鹿なこと言う女だっていうような顔でみたけど、何なのあれ。
何の優越感か知らないけどあなたどうせ今日わたしがあげた下着つけてるんでしょう?
そういうことじゃん。そのごまかしがみていて醜いって言ってるのよ。
矛盾に厳しい聖。
聖は美人で仕事も出来て女性らしく化粧もファッションも完璧。
そして男性だろうが同僚だろうが、容赦なく斬っていく。
男はとっかえひっかえ。友達はいない。仕事が一番の女性。
周りからは結婚、出産がいかにいいものか諭され、その愚痴を冬子に漏らす。
セックスで好き嫌いが分かれば簡単かもしれない。
まず寝てみればいいじゃない?という聖と、そんな気はないけど下着まで気を使った冬子。
確かに1ミリも期待がなかったとしたら嘘かもしれないけど、ワクワクする気持ちが服や下着や化粧に表われただけのことのように感じる。
冬子は心のどこかで聖を羨んでいたと思う。
だから、ありのままの冬子としてずっと三束さんと話していたのに、恋を自覚したとたんに自分を捨てて聖のようになろうとした。
ぼんやりとふわふわした二人の空気が、あの夜、くっきりと輪郭を持った。
そして三束さんは夢から醒めたように現実に消えてしまったのだ。
けれど、聖はずっとくっきりした光のまま冬子の前にいた。
冬子のいい所も悪い所も照らしだす光。
そして冬子は消えなかった。
冬子も聖も30代女性ということで、結婚・出産の話や、女性の価値観に関しても盛り込まれています。
なんだか三束さんとの恋よりも聖との友情の方がドキドキしてしまいました。
「孤独な魂がふれあったとき」というのはこの二人の事もさしていると思います。
すべて真夜中の恋人たち
ひとりきりなんだと、わたしは思った。
もうずいぶん長いあいだ、わたしはいつもひとりきりだったのだから、これ以上はひとりきりになんてなれないことを知っているつもりでいたのに、わたしはそこで、ほんとうにひとりきりだった。
こんなにもたくさんのひとがいて、こんなにもたくさんの場所があって、こんなに無数の音や色がひしめきあっているのに、わたしが手を伸ばせるものはここにはただのひとつもなかった。
わたしを呼び止めるものはただのひとつもなかった。
過去にも、未来にも、それはどこにも存在しないのだった。
そして世界のどこに行ったとしても、それはきっと変わらないのだ。
冒頭の冬子からどんどん人間臭さが滲み出てきます。
「ここだ!」というポイントはなく、じわじわと「あれ?」って思うことが増えてきて、寂しいだったり、悲しいだったりと言う感情から構ってほしいとか、気にかけてほしいとか他人への欲も出てきます。
傷付きたくなくて、相手を怒らせたくなくて、何も求めずに、周りが言うようにひとりきりで生きてきた冬子。
わたしは光に照らされた自分の文字をみて、こんなふうに誰かの原稿でもゲラでも何でもない場所に、目的のない、何のためでもない言葉を書くのは、はじめてだと思った。それが何なのか見当もつかない、何のための何の言葉なのかさっぱりわからない、けれどわたしの胸にやってきてそれから消えようとはしないその言葉を、わたしはじっとみつめていた。
冬子は最初、自分の言葉というものを持っていませんでした。
それが最後のページでは「すべて真夜中の恋人たち」という言葉を手に入れました。
誰かに伝えたいとか、他者との関わりを避けていた冬子の世界が他者との繋がりを持つ世界へと変わったことが分かります。
「すべて」というのは誰しもが誰かの光という意味なのかなぁ?と思う。