時間におわれ、おちつきを失って人間本来の生き方を忘れてしまった現代の人々。このように人間たちから時間を奪っているのは、実は時間泥棒の一味のしわざなのだ。ふしぎな少女モモは、時間をとりもどしに「時間の国」へゆく。そこには「時間の花」が輝くように花ひらいていた。時間の真の意味を問う異色のファンタジー。
この「モモ」が戦う「時間」は、一人では使いようがないことがあるのです。
誰かの時間を貰ったり、自分の時間をあげたり、そういう使い方でしか得られないものがあるのです。
生きるとはどんなことか。
自分がしたいこととは何か。
それは自分一人でどうにかなるものなのか。
会話は聞き手と話し手がいて成り立つよ。
芸術は足を止めてくれる人がいるから芸術になるよ。
読書は書き手がいるから読めるんだ。
あなたの時間はぬすまれてはいませんか?
それを確認するために、ぜひページをめくってみてください。
時間とは
とてもとてもふしぎな、それでいてきわめて日常的なひとつの秘密があります。すべての人間はそれにかかわりあい、それをよく知っていますが、そのことを考えてみる人はほとんどいません。たいていの人はその分けまえをもらうだけもらって、それをいっこうにふしぎとも思わないのです。
この秘密とはーそれは時間です。
時間をはかるにはカレンダーや時計がありますが、はかってみたところであまり意味はありません。というのは、だれでも知っているとおり、その時間にどんなことがあったかによって、わずか一時間でも永遠の長さに感じられることもあれば、ぎゃくにほんの一瞬と思えることもあるからです。
なぜなら、時間とはすなわち生活だからです。
そして人間の生きる生活は、その人の心の中にあるからです。
床屋のフージーは考えていた。
「おれの人生はこうしてすぎていくのか」と。
はさみとおしゃべりとせっけん泡の人生。
お客とのおしゃべりはすきだったし、はさみをチョキチョキするのも、せっけんの泡立てだってイヤじゃない。
仕事はけっこうたのしいし、うでにも自信があった。
だけど、フージーは思う。
ちゃんとしたくらしができていたら・・・と。
ちゃんとしたくらし。
なんとなくりっぱそうな生活、ぜいたくな生活、たとえば週刊誌にのっているようなしゃれた生活、そういうものをばくぜんと思いえがくフージー。
リア充な生活、美味しそうな手料理が並ぶインスタ、いつも仲間に囲まれて充実しているようにみえるFacebook、人気者の証明のようなフォロワー数。
他人の生きた時間の価値は他人には得られないし、他人にとって価値のある時間が自分にとって価値のあるものとは限らない。
自分がたのしいと感じる時間。
それこそが価値のある時間。
それは誰にわかってもらえなくても、ぬすまれてはいけないもの。
時間はぬすまれた瞬間に死んでしまう。
多くの人に求められるために使う時間に価値があるのではなくて。
価値は自分で決めるもの。
他人に委ねることは、死んだ生活を送ることになりかねない。
漠然とした何者かになる為に、何かに急かされ、効率の良し悪しに右往左往して、無駄なものは排除して、食べながら着替えて、排泄しながら歯を磨いて、歩きながら電話をして、電車の中で化粧をして、お風呂はシャワーで済ませて・・・
人間が時間を節約すればするほど、生活はやせほそってなくなってしまうのです。
時間があるから生きている。
時間が止まれば世界も止まる。
孤独
「人生でだいじなことはひとつしかない」と男はつづけました。「それは、なにかに成功すること、ひとかどのものになること、たくさんのものを手に入れることだ。ほかの人より成功し、えらくなり、金持ちになった人間には、そのほかのものー友情だの、愛だの、名誉だの、そんなものはにもかも、ひとりで集まってくるものだ。きみはさっき、友だちが好きだと言ったね。ひとつそのことを、冷静に考えてみようじゃないか。」
(中略)
「きみがいることで、きみの友だちはそもそもどういう利益をえているかだ。なにかの役に立つか?いや、立っていない。成功に近づき、金をもうけ、えらくなることを助けているか?そんなことはない。そんなことはない。時間を節約しようという努力をはげましているか?まさに反対だ。きみはそういうことをぜんぶじゃまだてしている、みんなの前進をはばんでいる!」
時間泥棒の言葉に何も言い返せないモモ。
しかしモモは簡単に時間泥棒の言うことに納得しません。
モモを厄介だと思った泥棒一味はモモに直接攻撃をするのではなく、モモを一人ぼっちにすることにしました。
モモの時間がどれだけあっても、それを共有できる友だちがいなければ、モモは寂しくなって自ら時間を切り捨てるだろうと思ったのです。
モモはまるで、はかり知れないほど宝のつまった穴にとじこめられているような気がしました。しかもその財宝はどんどんふえつづけ、いまにも彼女は息ができなくなりそうなのです。出口はありません!だれも助けにはいってくることはできず、じぶんが中にいることを外に知らせるすべもありません。それほど深く、彼女は時間の山にうずもれてしまったのです。
(中略)
いま彼女が身をもって知ったこと
ーそれは、もしほかの人びととわかちあえるのでなければ、それを持っているがために破滅してしまうような、そういう富があるということだったからです。-
どんな宝物も必要にされなければガラクタです。
どんなに綺麗な景色も、美味しい食事も、その時間を共有できる人がいて成り立つのです。
モモは誰の時間の中にも入れてもらえず、自分の時間の中に来る人もいない。
孤独はどこから生まれるのか。
それは時間から生まれるのですね。
喜びや悲しみを共有できなくても孤独ではないとき、例えば、同じ映画をみて意見が別れても孤独じゃない。
それは私の時間の中に相手がいて、相手の時間の中に私がいるから。
同棲しながらお互い別々の事をやっていても、そこに流れている時間に相手がいるのだと、自分がいるのだと認識出来ていれば寂しくない。
でも、手を繋いでいても会話をしても、相手の時間の中に自分が入れないならそれは孤独だ。
モモは気付きます。
自分だけが時間を持っていても意味がないこと。
みんなのぬすまれた時間を取り戻すために、自分まで変わってしまってはいけないこと。
田舎がなんとなく落ち着くのは、失われた時間が生きているからなのかなって思いました。
変わってしまった皆が帰ってこれるように変わらないままでいることを選んだモモのように、変わらずに在り続けるものがあるから変われるのだと。
待つ時間
マイスター・ホラという時間を司っている男の所に導かれたモモ。
そこで時間泥棒と時間の花を見せてもらったモモは早速友だちに話そうと思いました。
「でも、星が話してくれたことを、友だちに話してあげるのはかまわないんでしょ?」
「それはいいよ。だができないだろうね。」
「どうして?」
「それを話すためには、まずおまえの中でことばが熟さなくてはいけないからだ。」
「でも話したいの、なにもかも!あそこで聞いた声を、うたって聞かせられるといいな。そうしたら、なにもかもまたよくなると思うわ。」
「ほんとうにそうしたいのなら、待つこともできなくてはいけないね。」
「待つなんて、わけのないことよ。」
「いいかね、地球が太陽をひとめぐりするあいだ、土の中で眠って芽をだす日を待っている種のように、待つことだ。ことばがおまえの中で熟しきるまでには、それくらい長いときが必要なのだよ。それだけ待てるかね!」
ことばがおまえの中で熟しきるまでには、それくらい長いときが必要なのだよ。
言葉って当たり前に使いますよね。
会話の中で、日常的に。
だからこそ深く考えずに安易に多用してしまう。
そのまま深く考えずにだって生きていけるものだし、会話が成り立っているのなら特別疑問に思う人も少ないと思う。
だけど、こうやって本を読んで感想を書こうとするとき、言いたいことをうまく表現できないもどかしさにぶつかるときがたくさんある。
でも一年前の自分だったらもっと出来ていなかっただろうとも思う。
何事もすぐに結果は出ない。
その時を待つ。
時間を重ねる。
何かを感じて、それが熟すまでには時間がかかるのだ。
その時間さえ節約してしまったら、何も実らない。世界は枯れてしまう。
あなただけの時間。
誰かにぬすまれてはいませんか。
モモ―時間どろぼうとぬすまれた時間を人間にかえしてくれた女の子のふしぎな物語 (岩波少年少女の本 37)
- 作者: ミヒャエル・エンデ,Michael Ende,大島かおり
- 出版社/メーカー: 岩波書店
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