差別とはいかなる人間的事態なのか? 他者に対する否定的感情(不快・嫌悪・軽蔑・恐怖)とその裏返しとしての自己に対する肯定的感情(誇り・自尊心・帰属意識・向上心)、そして「誠実性」の危うさの考察で解明される差別感情の本質。自分や帰属集団を誇り優越感に浸るわれらのうちに蠢く感情を抉り出し、「自己批判精神」と「繊細な精神」をもって戦い続けることを訴える、哲学者の挑戦。
あぁ、これが哲学なのか。
そう感じた一冊。
作者自身が迷っていて、自分の本心がわからない・・・と書いています。
哲学って答えがないもの。
いじめ、ユダヤ人虐殺、社会的弱者、不快、嫌悪、軽蔑、恐怖・・・目を背けたい内容が詰まっているもの。
「よりよい者になりたい」という向上心がある限り差別はなくならない。
われわれ人間が「よいこと」を目指す限り、差別はなくならないであろう。いや、「よいこと」を目指す人がすべて同時に差別を目指していることを自覚しないうちは、彼が自分を純粋に「よいこと」だけを目指し、他人を見下すことは微塵も考えていないという欺瞞を語る限り、なくならないであろう
残酷な努力神話
不美人がどんなに努力しても美人には太刀打ちできないし、鈍才がどんなに努力しても秀才にはかなわない。しかしそれを知りながら、恋愛闘争において、入学試験闘争において、それを理由にすることがほぼ禁じられているのだ。
それを理由にすること、そのことが「負け犬」とみなされるのだ。
(中略)
Aちゃんは目が覚めるようにかわいくて明るくそのうえ成績もいいのに、私はブスで暗くて頭も悪い。みんなそれを知って、Aちゃんをちやほやし、私から顔を背ける。
それなのに、私は不満を訴えてはならないのだ。
訴えた瞬間にみんなから腹を抱えて笑われるのだ。
そして、この格差が死ぬまで続くのである。
それなのに、私はこれを問題にしてはならないのである。
人は人に「あきらめる」ということを簡単には許さない。
ピアノの発表会で、習字の選考会で「なぜOOちゃんより早く始めたのにOOちゃんの方が上手いのかしら」「いつまでたっても上手くならないのはやる気がないからだ」という親の落胆が子どもにのしかかる。
人が平等ではないことなんてもう分かりきっていることなのに「努力次第」で何とかなるという風潮を押し付ける。
死ぬまでタバコを吸い続けても肺ガンにならない人もいるし、どれだけ食べても太らない人もいるように、人はそれぞれ異なっている。
それなのに、大多数の意見を「正」や「善」と見なして自分で考えることを放棄している。
学校内のヒエラルキーの元がこれだと思う。
Aちゃんというグループの頂点の人に対して、下位の者は不満を訴えてはならない。
例えAちゃんがずるをしたり、ごまかしたりしても、許される何かがあって、それは下位の者には与えられていない。
「世にも奇妙な物語」で「美人税」という物語をやっていたが、本書はこれに近いことを言っている。
能力がある者、美しく生まれた者は負い目を背負わなければならないと。
しかし、社会の制度として盛り込まれるとそこには新たな差別が生まれてしまうので、美人税は現実的でないですが。
差別はなくならない。
問題は、人間には生まれ持った美貌、才能と能力の差異があると認めておきながら、能力が劣る者に不平の声をあげることを禁じているということ。
不平の声をあげた者に対して「努力している人間はたくさんいるのに」という批判をあげ、「同じように不平で苦しんでいる人間のことを考えよう」という思考を持たないということ。
そして、そのことにさえ気付かないことが問題なのだ。
いじめについて
子どもにとって、学校という壁に囲まれ教室という更に壁に囲まれた微小空間のうちが世界のほぼすべてである。そこで、朝から夕方まで同じ数十人の者と付き合わねばならない。
そこには、「平等思想」が蔓延しており、学力や体力や人間的魅力など歴然と差異は実在するのに、教師によって成員自身によって日々その差異を消す努力がなされる。
子供たちは、こういう嘘で固めた濃密な空間において窒息しそうなのだ。
成員はものすごい圧力から抜けだしたいが、「平等思想」自体を否定することも、現実の差異を否定することもできない。
そこで、子供たちは両者を保ったまま気圧を下げることのできる「風穴」を掘ろうとするのだ。
作者は小学校高学年にでもなったら、このようないじめの権力構造を教えることを提案したいと書いています。
現実社会は権力構造に彩られており、きみたちはすでにそれを察知していて、無意識的にその予行練習をしているのだ、と教師たちは子供たちにそのまま言ってみるのである。
人間は平等であるとか基本的人権というきれいごとは単なる理念であって(理念としてはすばらしい)、現実は似ても似つかない修羅場であることを教え込むことである。
(中略)
人間は十歳にもなれば、こうした過酷な権力関係を知っている。それなのに、教師たちは教室であたかもそれが存在しないかのような、あるいは唾棄すべき悪であるかのような御伽噺を語るから、子供たちは聞く耳をもたなくなるのである。
こうやって子供たちは大人を信じられなくなっていくんだと思った。
大人たちだって好き嫌いがあって苦手な人、避けたい人、好きな人、贔屓にしている人、そういう差別を自分でしているのに、生徒には「みんな仲良くね」という無理難題を押し付ける。
いじめっ子の生い立ち、いじめられっ子の特徴をリサーチしても、いつどこで、何がきっかけで生まれるのかは特定できない。
地球上の誰にも嫌悪を抱かない、不快に感じない、そんな人はいない。
だからいじめも差別もなくならない。
問題なのは、なぜ不快に思ったのか。どうして嫌悪を抱いたのか。
そういう自分の精神を見つめることだと思う。
傍観者は傍観者で、なぜ傍観者の役に徹したのか、助けようと思わなかったのはなぜか、また助けるべきなのはどちらか?
はたまた自分はそもそも、教室の一員なのか。空気のような存在でいたいのか、自分が信じているものはなんなのか、今どんな気持ちか・・・
それは、本当に自分がしたいことなのか?
一番卑怯なのは、誰かの意見に身を委ねることだと思う。
まずは自分で考えよう。
どんなに尊敬する人の意見でも、憧れの人の思想でも、そこを始点に自らが考えてみなければ、それは自分の考えにはならないのだから。
己との戦い
差別感情に向き合うとは「差別したい自分」の声に絶えず耳を傾け、その心を切り開き、抉り出す不断の努力をすることなのだ。こんな苦しい思いまでして生きていたくない、むしろすべてを投げ打って死にたいと願うほど、つまり差別に苦しむ人と「対等の位置」 に達するまで、自分の中に潜む怠惰やごまかしや冷酷さと戦い続けることなのだ。
差別のない世界はユートピアなのか?
ユートピアは果たして善き世界なのか?
被差別者としてのくくりを巧妙に示すテレビ番組。
差別からの逆差別。
言語と共に培われてきた差別感情。
家族は「絶対的によきもの」という家族至上主義。
差別語に宿る暴力。
差別の温床は「普通」を求めすぎることから。
忘れてはならないのは、この本を読むいわゆる「差別をなくそう」という人間がいる限り差別はなくならないということ。
罪のない冗談の中に、何気ない誇りの中に、純粋な向上心の中に、差別の芽は潜み、それは放っておくと体内でぐんぐん生育していく。
(中略)
すべての行為に差別感情がこびりついていることを認めない限り、自分は差別していないという確信に陥っている限り、自分は「正しい」と居直る限り、人は差別感情と真剣に向き合うことはないだろう。
何気ない日常の中に差別は常に生まれている。
あからさまな差別だけじゃない、一つの感情には差別感情が複雑に絡みついている。
だからキレイゴトしか言わない人間はキライなんだ。
自分の中の差別感情に目を向けようともせずに、純粋無垢だと信じて疑わない無神経さが大嫌いなんだ。
そして、私はそういう人を軽蔑という形で差別している。
キレイゴトだけを並べるというのはそれ以外のことを無視しているに他ならないから。
その無視している自分は棚に上げて、不平の声をあげるものに一瞥をくれるあなたを心の底から私は軽蔑する。
軽蔑が差別感情であっても、私は私の信念に従う。
だから差別はなくならない。