盲目の三味線師匠春琴に仕える佐助の愛と献身を描いて谷崎文学の頂点をなす作品。幼い頃から春琴に付添い、彼女にとってなくてはならぬ人間になっていた奉公人の佐助は、後年春琴がその美貌を何者かによって傷つけられるや、彼女の面影を脳裡に永遠に保有するため自ら盲目の世界に入る。単なる被虐趣味をつきぬけて、思考と官能が融合した美の陶酔の世界をくりひろげる。
R-18の映画観るよりエッロいなぁ・・・と思いましたw
どこまでもエゴに塗れた愛って、美しさを超えて畏怖の念を抱く。
読後の余韻がどこまでも続くような感じで、ずっとドキドキして、ずっとニヤニヤしてしまった。
直接的な表現は何一つとしてないのに、なぜこんなに官能的なのか。
これが言葉を操る作家のなせる技なのか。
とにもかくにも、未読の人にはぜひとも読んでもらいたい一冊。
理由も原因もいらない
謎の部分が多いんです。
むしろ、はっきりしているのは佐助の春琴への献身的で異常な愛だけ。
春琴の顔はもちろんなぜ盲目になったのかとか、春琴を襲ったのは誰なのかとかは非常にどうでもいいことという具合です。
春琴サイドの描写がなく佐助の残した「鵙屋春琴伝」をたよりに「私」が語っている話なので、謎が謎でないのは佐助にとってはどうでもいいことだったからだと思います。
春琴がいて、仕える自分がいる。
それだけでいいわけです。
佐助の中でどうでもよくないのは、この主従関係に変化が起こることのみだと思います。
彼は決して春琴と肉体の交渉をしても、二人で住むようになっても恋人や夫婦の関係になろうとはしなかった。
春琴が強く拒んだ描写が多々ありますが、佐助も望んでいなかった。
なぜなら彼にとってそんな彼女は彼女ではないからです。
これは傲慢な女とドMな男の話じゃなくて、自分の理想の女性と出会った男が、永遠に理想を手放さずに生きた話だと思っています。
理想を手放さないために、自分の両眼さえ潰すという狂気を持ち合わせた男。
彼は「わてをみないで」と泣く春琴のために潰したのではなく、自分が愛した春琴を永遠にするために潰したのです。
だって、「わてをみないで」と拒否されたら一緒にいることができないんですから。
春琴のためを思えば、盲目の春琴の代わりに春琴の目となることなのに。
二人で盲目になったら生活どうすんの?とか、そういうリアリティほどいらんものはないなと痛感した小説。
生活感を全く排除した愛って怖い。
マゾの方が強い
サドの方が一見、主導権握っていて痛めつけるご主人様のイメージですが。
その実、マゾの方が相当に強いと思います。
ただし、間違ってはいけないのはこのマゾというのは自分が惚れ込んだ相手にだけ作用するということです。
よく「お前Mだからイジられるの嬉しいんだろ~」みたいなMはイジってもいいみたいな風潮がありますが、これは全くの誤解です。
これで嬉しがっている人はMだからではなく、単に嬉しいからです。
話題の中心になったり、注目を浴びることが嬉しかったり、単純に仲良くなれて嬉しいからです。
献身的に主人に奉公する佐助をM、傍若婦人に振舞う春琴をSとしましょう。
最初の時点では、春琴は少し我侭くらいだった。
それが佐助というどこまでも深い受け皿に出会ったが故にどこまでも落ちていくことになった。
佐助がいなければ、春琴は大やけどをくらう羽目にはならなかったと思う。
そこまでの恨みを他者から引き出したのは他でもない佐助の存在です。
春琴をどこまでも孤独にさせたのは、誰でもない佐助なのです。
佐助なしでは生きられないほどに春琴を育てたのです。
これがMの真骨頂。
だって春琴はトイレの後、手を洗わない。
なぜなら用を足したあとの処理は全部佐助がやってるから汚れるところがない。
扱き下ろしているようで、確実につまれてます。
Sより俄然怖いよ、M。
フェティシズムがある方が強い
私はMではないと思うけど、ちょっと佐助の気持ちが分かる気がします。
ちょっとね。
もし、盲目だけど美少年で超我侭でちょっと暴力的で理不尽だとしても音楽の才があり、年を重ねてもそこまで毛深くならずに傲慢だけど自分だけに日常のあらゆる世話をたよりきっているという弱さを兼ね揃えた男がいたら。
佐助のように、耐えることさえ美徳に感じてしまうかも。
どこまでも尽くして、どこまでも許さないでほしい。
対価はいらないから、ずっと美しいままそばにいてほしい。
そんな思いが過るんじゃないかと思います。
究極に美しいなって思っちゃったんですね~。恥ずかしながら。
だって、「愛しあう関係」になったら甘えとか許しとか怠惰とか生まれるじゃないですか。
それって同時に美しさを捨てることになると思うんです。
安心と引き換えに輝きは消えてしまう。
佐助がなぜ春琴に尽くしたかというと、その内容が春琴が美しくあるための我侭だったからだと思うんです。
もし「焼きそばパン買ってこいよぉ~」みたいなパシリ扱いで、食べるだけ食べて太ったり、その結果肌が荒れたり・・・っていう美を損ねる我侭だったなら佐助は春琴にそこまで心酔しなかったと思うのです。
佐助と春琴のようにwinーwinの関係になれたら一番幸せな気がする。
どう考えても二人だけの世界で他者が入り込む余地もない。
そこで他者が引こうがそんなの一切目に入らないくらい二人だけで満足しあえる関係になれたら、それこそお互いの生命以外に重要なことなんてないよね。
それってエゴとエゴがちょうど凸凹みたいになってて気持ちよくハマるピースになってる気がする。
エゴとエゴで出来た愛ならすっごい納得出来る。
しかもエゴとエゴなのに、すごく美しい・・・というかまさに官能的。
もう、ほんとうに、全然エロくないんですよ、なのに官能的ってどういうことなの・・・
今年は谷崎潤一郎追いかけようと心に誓いました。
溺れちゃいそうです。 谷崎潤一郎の世界に。
↓Kindleは無料で読めます。