≪内容≫
「スプリットタンって知ってる?」そう言って、男は蛇のように二つに割れた舌を出した―。その男アマと同棲しながらサディストの彫り師シバとも関係をもつルイ。彼女は自らも舌にピアスを入れ、刺青を彫り、「身体改造」にはまっていく。痛みと快楽、暴力と死、激しい愛と絶望。今を生きる者たちの生の本質を鮮烈に描き、すばる文学賞と芥川賞を受賞した、金原ひとみの衝撃のデビュー作。
30分くらいで読み終わっちゃいました。意外。
映画の予告編ちらっと見たんですが、ちょっと私の解釈とは違う気がする。
透明な痛み
この無気力感。けだるさ。何とも透明な感じです。
この小説に出てくる人達みんな年齢不詳です。だけど19歳くらいかなぁ~と思う。学校には行ってないみたいだし、21歳とかだと幼稚過ぎる。だから19歳。
「蛇にピアス」は題目の通り蛇の刺青とたくさんのピアスが出てきます。文字からイメージ出来る通りの痛みも伴って。
この痛みを求める感覚っていうのを私はちょっと分かるんです。
なぜかというと、耳に空けたピアスを00Gまで拡張したことがあるから。
まさしく18~19歳の期間だった。眉にも開けたしなぁ。口や舌に開ける勇気はなかったけれど。
日常生活に「痛み」がなかったんです。
何をしても楽しいとか辛いとかそういう生きた感覚がなくて「虚しい」感覚だけで生きているような感じ。
リストカットするほど絶望を感じたり死を望んだりしているわけでもなくて、だけど痛みを感じると、ちょっとドキドキする感じ。
じんじんじわじわと常に痛みが寄り添っているから痛みっていう生きた感覚が持てる。
そうなった経緯とか事件とかがあったわけでもなく、まさしくこの
私も今、外見で判断される事を望んでいる。
陽がささない場所がこの世にないのなら自分自身を影にしてしまう方法はないかと、模索している。
目に見えるような痛みじゃなくて、虚しさっていう透明な痛み。
その痛みを癒すのが身体改造という痛み。
しかしルイはその痛みに涙を浮かべるときもあります。
それはアマを思うとき、つまり甘えられる相手がいれば痛みに敏感になるのです。
アマとルイ
この二人、ほんとにナイスキャスティング
アマとルイは同棲していて、アマはルイにぞっこんなんですが、ルイはシバさん(刺青師でありピアッシングもしている)とも寝ています。
どっちが私を殺してくれるかな?と考えるルイは、恐らくどちらにも興味がないし愛していない。
アマがいなくなって悲しんだり怒ったり、ご飯を食べられなくなったりするけど、それって「愛する人が死んだ悲しみ」じゃなくて、自分を影にするための存在が消えたからだと思うんですよ。
すなわち、アマはルイのもう一人の自分だったわけです。
アマを殺したのはシバさんで、そのシバさんが本当に殺したかったのはルイだった。
だから、シバさんがルイを手に入れるためにアマを殺したという考えも出来るけど、シバさんが殺したがっていたのはルイなのだから、あの日いきなり殺されちゃったアマはもう一人のルイなんじゃないかなって思った。
別々に生まれてきちゃった二人が一つになる為に、どっちかが死ぬ必要があった。
だって生きていたらいつか忘れられちゃうかもしれないけど、死んだら永遠に忘れないでしょう。それが恋人や家族なら絶対に。
そうして、アマが死んだからアマがくれた愛の証を血肉にすることができた。
そしてルイは命を持った。
シバさんとルイ
ルイは次なる光をシバさんにしました。
アマは自分の血肉となり、自分を殺してくれるのはシバさんになった。
それでやっとルイは安定したのでした。
アマを失くした悲しみも本物だけど、ルイはまだ答えを見つけたわけではない。
新しい環境が生んだ新鮮さに光を感じているだけだ。
解説で村上龍がこの話は嘘のない小説と書いていて
不明というのは、作者がルイ本人にも自分の感情や気持ちや言葉がよくわからないのだ。嘘がないとはそういう意味だが、優れた小説というのは必ずそうやって書かれる。
作者は登場人物たちをコントロールするわけではなく、登場人物たちに引きずられるわけでもない。
小説を書いている間、作者は登場人物たちと「共に生きるのだ」。
と言っているように、分かりづらいというか「え?」という場面が多い。
そこで元気になるの?そこでなぜ無気力に?なぜアル中に?というように「分かりやすさ」がない。
でも、村上龍のいうようにこの小説がエンターテイメントではなく、人間を描くことをしているのならこの「分からなさ」こそが真実だと思います。
自分にだって分からない身体の反応やテンションの上がり下がりで、自分が自分についていけなくて倒れたり、腹が立ったり、理性では抑えきれない衝動と戦うことって誰しもがあることだと思います。
人が人を理解することは小説においても無理だと言われているようですが、小説だから「ルイ」を自分に置き換えて、アマを失くしてもその犯人がシバさんでも大丈夫と言える心境をぐるぐると考えることが出来る。
私が思うルイは、冒頭から最後まで何一つ変わっていないように思えます。
目新しく、刺激的に見えるものに手を出し、恋人が死んだら、恋人を殺した男と一緒になって・・・何か心を動かされることも、目標を見つけることも、憎しみも愛情も彼女の心には傷痕ひとつさえ残せない。
この小説が持つ「なんとなく」感。
突きつめることもなく、流され、何となく悲しい、何となく大丈夫っていう感覚。
大人たちは「自分を大切に」なんて超正論なこと言ってくるけど、そんなこと出来るならやってる。
目標とか悲しみとか愛とか、そういうのって簡単には見つからない。
それこそ誰かと出会ったって、セックスしたって、一年やそこらで変わるものか。
「限りなく透明に近いブルー」を書いた村上龍だって、最後には希望で終わってた。
この「蛇にピアス」は、ちょっとやそっとじゃ触れられない少年少女の固く閉じた心を書いていると思う。
その拒絶は、読んでいる読者に対しても等しい。
透明な痛みだから、それは誰にも見えない。
もしその痛みが「悲しみ」とか「憎しみ」とか「愛しさ」とかっていう色を持ったとき、初めて他人に見えるもの。
だから、この本を読んだ人は彼女の痛みには気付けないことが正しいのだと思う。
誰もが当たり前のように色のついた感情を持ち合わせているわけじゃない。
「若い奴は何考えてんのか分からない」っていうのは、感情が透明だからなのだ。
限りなく透明に近いブルーくらいになってくれたら他人は手を差し伸べたり出来るのに。
今時の子がどうとか、昔の子がどうとか分からないし、比べる必要もないと思う。
ただルイという透明な痛みを体現した少女を是非知って欲しいと思う。