≪内容≫
日本には宗教間の対立がほとんどない。仏教と神道が争うことはない。いまの日本人はキリスト教を否定しない。西洋人が、日本人から大いに見習うべき点は、ここだろう。そして、日本人は無意識のうちに、日常生活の中で「禅」の教えを実践している。だから、日本人に「宗教」は要らない…。曹洞宗の住職であり、元キリスト教徒(プロテスタント)の著者が、日本と欧米社会を比較しながら、「日本人の宗教観」について考察する一冊!
一応日本には仏教と神道がありますが、ハロウィンしたりクリスマスしたり教会で式を挙げたり、神社に行ったり寺に行ったり、様々ですよね。
日本人からしたら宗教対立で戦争するって「?」としか思えないくらい何でも受け入れて楽しんでいます。
私は無宗教だとは思っていますが、この本を読んでみると禅の心があるのかもしれない・・・と思いました。
他国の宗教感が衝撃過ぎて面白いです。
これは日本人にはないわぁ~というのが盛りだくさんで面白い!
キリスト教徒にとって労働は「罰」である
キリスト教徒にとって、労働は「罰」である。
アダムとイブはもともと労働がない楽園にいた。
食べてはいけない禁断の果実「善悪の知識の木の実」を食べてしまったために、楽園を追放されて働かなければならなくなった。
だから、欧米人にとって、働くことは罰で、苦痛なのだ。
何もしない(働かない)ことが理想であり、そこに幸せを見出す。
お国柄じゃなくて宗教的になのですね。
日本では学校の掃除は生徒が行うし、家の掃除とか家事は家人がやります。
お手伝いさんを雇う人なんてほとんどいないんじゃないかなぁと思います。
自分のことは自分でやる。
それを「労働」だと思ったことは私はありません。
当たり前のことで、辛いときはスーパーのお弁当を買ったり、掃除洗濯は溜めこんで休みの日に一気に片づけたり。
日常を大切にする日本人と違いキリスト教は心の中を大切にするらしい。
お茶の飲み方やお肉の食べ方は宗教と無関係で、ナイフやフォークの持ち方はマナーであり宗教ではない、とのこと。
日本人にとってマナーと宗教の境目ってない気がします。
労働は仕事であって、家のことは労働ではない。
時間がなくて家政婦を雇う人がいても、労働はせん!として雇う人っているのかな?
掃除・洗濯・料理って気持ち良く生きるために必要なことだと思うので、そこを他人に委ねられるのが逆にすごいなぁと思う。
キリスト教徒の考え方が分かって本書はとっても面白い。
キリスト教の「隣人愛」の謎
日本人がキリスト教に馴染まない、もうひとつの理由に「隣人愛」があると思う。「キリスト教徒は、隣人愛を説くが、なぜ彼らは戦争ばかりしているのか。本当に相手を想う心があるならば、争いごとなどないはずではないか」
もっともな疑問である。
そう!!そこです!!
キリスト教徒は、隣人愛を説くが、なぜ彼らは戦争ばかりしているのか。本当に相手を想う心があるならば、争いごとなどないはずではないか
↑
これ多くの日本人が疑問に思うはず。
あと、信じる者は救われるって信じる者しか救わない神様って本当に神なの?とか、じゃあもう死んじゃったご先祖様は地獄にいるの?とか。
あと私が常々思ってた、神話の神様って心狭くない?ってところも書いてありました。
何でそんなすぐ激怒して罰を与えるのか意味分からない。
キレてから殺すまで早すぎるだろうが!
いったん落ち着けよ!!!
問題は、「キリスト教徒が、なぜ隣人愛を説き続けなければならないか」である。
それは誤解を恐れずに言えば、彼らの中に愛がないからだ。
愛にあふれていれば、他人に向かって愛を説く必要はない。
それがないからこそ、あえて「敵を愛せよ!」と説くわけだ。
(中略)
実際に、日本なら大ニュースになるような、子が親を殺す、親が子を殺すという事件は、欧米では日常的すぎてニュースにならない。
(中略)
欧米人が、"I Love You."と何度も何度も言わずにいられないのは、「愛している」とお互いに確認していないと不安だからだ。
愛を感じていないからこそ、"I Love You. Do You Love Me?"(私はあなたを愛しています。あなたは私を愛していますか?)と聞いてしまう。
例えば、私たちは呼吸をしているが、「私はいま呼吸しているのだろうか?」とは誰も疑問に思わない。当たり前にしていることを、人は確認しない。
え!!!???
愛ないの!!!???
日本人:外国人は日本人と違っていっぱい愛してくれるって言ってくれるから外人がいい!!
欧米人:「愛してるよ・・・(俺はこいつを愛している。オーケーオーケー。これは愛。愛なんだ!確認しよう!)」
日本人:「嬉しい♡なんてやさしい人なの!」
よく映画で電話の最後に「I Love You」「I Love You too」って続くじゃないですか。
これって今まで欧米人は愛に溢れてつい言葉にも出ちゃうだろうなぁ~って思ってたんですよ。
まさかの逆!!!!
でも納得できる。じゃなきゃ他国に対しての冷たさが理解出来ない。
一神教であるキリスト教と違い、八百万神から始まり、お天道様、お陰様、さらにはアメリカがデザインしたビリケンさんよろしく、果てはお客様まで神様にしちゃう日本人のテキトーさ(寛容さ)は、「愛」を当たり前に感じられるからかもしれない。
欧米の家庭内容もびっくりです。
日本でいう川の字で寝るっていう平和が欧米では有り得ないらしいです。
欧米では厳格な父によって否定されて育つのが普通らしい。
自分が受けた「厳しさ」、そこから発生した「憎しみ」、その憎しみを「愛」に変えようと必死になっている。
それが、欧米社会である。
日本のしつけの厳しさとどう違うのか、憎しみの度合がどれくらい違うのか気になります。
すべての欧米人が愛を持っていないなんて思いませんが、なぜそんなに愛を言いたがるのか。愛してるとたくさん相手に言うことが本当に必要なのか。
愛を言う方も言われる方も、それぞれが愛を持っていなければ何度も確認しなければならない。
逆に二人ともが持っているなら、二人で同じ時間を共有してるだけでそこに「愛」があることを口に出さなくても何となく感じられるものな気がする。
だから他人である恋人には「愛してる?」「愛してるよ」が必要だけど、家族に「愛してる?」なんて聞くのは、せいぜい思春期の不安定な時くらいである。
「どうせ私のことなんか愛してない(どうでもいい)くせに!」というのは、愛が不安定で確認したくてしょうがないのだ、と思うと「愛してる?」と人に問いたいときは自分の中の「愛」がグラグラ揺れている状況だと考えられる。
欧米人は常にこんな不安定な愛をもとに生きているのかと思うと心配になるな。
坐禅の意味
普段、我々は何をしているのか。
何かをしているようで、実はいつも何かに使われているのではないか。
将来何かになるために勉強する。
いい大学に入るために勉強する。
しかしそれは、「いい大学に入らなければならない」という思いに使われて勉強しているに過ぎない。
なぜいい大学に入らなければいけないのか。それは、いい会社に勤めたいからである。
なぜいい会社に勤めたいのか。それは、いい給料をもらいたいからである。
なぜいい給料をもらいたいのか。それは、いい生活をしたいからである。
なぜいい生活をしたいのか。それは・・・。
生きている限り、欲望は続いていく。それはハムスターの回し車のようだ。その中で一生懸命走っても、何のために走っているかはわからない。結局、我々は何かをしているようで、いつも何かに使われているのだ。
坐禅は、「ただ座る」だけである。
しかし、その時間は何にも使われていない。
何のためにもならないからこそ、初めて自分の時間になるのだ。
「 何のために?」という雑念は常に纏わりついてくる。
無意識の内に"何のためにもならないこと=無駄"っていう式が出来あがっていて"何かのためになる=有意義"という謎の価値観に捉われてしまう。
坐禅をする人が「悟りたい」と思ってするのも欲望であると書かれています。
欲望は悪いことではないと思います。
欲があるから文明は発達したし、今の暮らしがある。
しかし、その中で欲に身を滅ぼされる人、欲をコントロール出来ず迷う人もいる。
坐禅とは、ただ座ること。
そこに座るという意識も持たないこと。
何のために坐禅をするのか?というのは何のために生きるのかと同じと書かれています。
他にもお寺の経営に関してとか、欧米には教会税がある話とか、檀家問題とか、色々な話があって大変面白いです。
私は常々、欧米のエクソシストという職業の人はどうやって生きているんだろうか?と思っていました。
色んな職業があれど、日本でエクソシストはいないでしょう?
まず悪魔自体ファンタジーだし。
しかも日本は教会税のようなものがなく出来高制、つまり悪魔払いの依頼が来て初めて収入になると思うので、悪魔がいなきゃ成立しない職業だし、そもそも悪魔ってファンタジーだし・・・みたいな。
でも教会税があるってところで納得しました。
日本の公務員のようにお給料が毎月一定額もらえるそうです。
色んな新しいものを取り込むことが上手い日本人。
よく考えてみればサンタクロースなんて思いっきりアジア人じゃないのに信じちゃうところが面白いですよね。
トナカイに乗ってくるって、トナカイに馴染みもないのに。笑
私たちが当たり前に過ごしている日常が、他宗教から見れば宗教的に見えるようです。しかし当の日本人は全く宗教に興味がないというのが面白い。
私たちの「当たり前」、よそから見たら宗教的。