≪内容≫
ミシェル・フーコーをして「今世紀で最も重要な思想家のひとり」と言わしめたジョルジュ・バタイユは、思想、文学、芸術、政治学、社会学、経済学、人類学等で、超人的な思索活動を展開したが、本書はその全てに通底・横断する普遍的な“宗教的なるもの”の根源的核心の考察を試みる。その視線が貫いていく先にある宗教の“理論”は、あくまで論理的な必然性まで突き詰められたものであり、矛盾に満ちた存在“人間”の本質を、圧倒的な深みをもって露呈させる。バタイユ死後に刊行された、必読のテクスト。
ある一つの思想の基礎的な土台は他者の思想なのであって、思想とは壁の中にセメントで塗り込められた煉瓦なのである。
世の中に溢れる音楽も絵も思想も誰かから影響を受けていて、全くのオリジナルは存在しない。
一冊の本で理解するのは不可能である。
この本における宗教とは、キリスト教とかそういう宗教ではありません。
概念というか、言葉に宿ったイメージの根本というか。
聖なるものとモラルと法
もともと原始的宗教においては、一方の側に超越性としての客体(物)の世界ーその事物たちとは祝祭・ 供犠において破壊することを通じてしか交流できず、消尽することによってしかそこに参入できないような世界ーがあった。
それが俗なる世界である。
そして他方の側にある聖なる世界は、完全に内在性の領域であり、激しい暴力性と内奥性であって、だからその神的な世界の内には<吉>で清浄な要素もあれば、不吉な穢れた要素もあり、それらはともに聖なるものだった。
だからその神的な世界の内には<吉>で清浄な要素もあれば、不吉な穢れた要素もあり、それらはともに聖なるものだった。
現在は聖なるものといえば、穢れたものは入っていません。
モラルや法が秩序の安定のために、清浄な要素だけを聖なるものとして不吉な穢れた要素を削ぎ落としたからです。
秩序の安定、すなわち労働が乱れないようにモラルは生まれたのです。
ここから私の考えですが、もともと人間は動物と大差なかった。
だけど「死」とか恐怖とかを感じることで、武器を作ったりして人間と動物に隔たりが出来て文明が生まれた。
文明が生まれたとき、供犠というのは、狩りをしたときに行う怖れへの対処法だった。
人は「死」を怖れるが、狩りは命を奪う。
その恐怖を供犠を行うことで散乱させていた。
しかしその内に戦争が勃発。
戦争が生まれたのはよりよい暮らしをするためです。
よりよい暮らしを目指して人はますます労働するようになる。
その中で勝つための道具や物資を買うためのお金が必要になる。
しかし人間たちが穢れたものも聖なるものとしてみていると、濫費や消尽も聖なることとして禁じることが出来ない。
そうなるとお金がたまらないから武器が買えない。
戦争がなければ労働だけで生きて行けたのに、戦争によって過剰な労働が必要になった。
そうだ、消尽を促す穢れたものは聖なるものから削ぎ落してしまえ。
そうすれば人々はますます労働をして聖なるものを目指すだろう。
↑
ということなのかな?と思ったんですが、難しくてあまり腑に落ちてはいません。
誰もが知っていることですが、人間の祖先ってほぼ裸じゃないですか。
「死」への恐怖はあれど、それ以外のものは内奥性として認められていた。
今は、道徳やモラルという言葉で人を従わせようとするものが主流になっているし、それが当たり前のようになっていますが。
内在性とは水の中に水がある状態のことを言います。
無感覚なもの・・・というか。
そういうものを、今はなんでも「それはひどい!」「それはどういう感情なの?」と言葉にしたがるし、言葉に出来ないものはないものにされている気がする。
人は心さえ口に出した瞬間に自由を奪われている。
供犠という消費
一般的に言って死の持つ力が供犠[le sacrifice]の意味を明らかにしてくれる。
(中略)
重要なのは持続性のある秩序から離脱して、無条件な消尽の激烈さ=暴力性へと移行することである。
言いかえれば現実的な事物たちの世界の外へ、その現実性が長期間にわたる操作=作業に由来するのであって、けっして瞬間にあるのではないような世界の外へ出ることー創り出し、保存する世界(持続性のある現実の利益となるように創り出す世界)から外へ出ることが重要なのである。
供犠が持つ意味は、一度内在性を奪われたものにもう一度内在性を与えるというような意味と解釈しました。
私たちは生まれて意識が芽生えると労働の世界へ自然と馴染んでいきます。
社会の中で生きていきます。それは内在性を引き出された状態です。野生の動物たちと家畜は違います。
野生の動物たち=内在性がある。
家畜=内在性を奪われ事物と化したもの。
という認識です。
私たちは死ぬ。
そのときには「死」という意識さえも持たない内在性をもつ動物に戻るのだ。
↑
ってことだと思うんですが・・・。そう考えるとバタイユは何とかして苦しみから逃れようとしているように感じます。
意識があるから怖れるのであって、意識さえもたない動物になってしまえば死の苦しみはない・・・と考えたのでしょうか。
そう考えなければ供犠という恐ろしい風習がなぜ生まれたのか理解に苦しむからでしょうか。
供犠という得体の知れない理解できない風習。
想像力が豊富な人なら、その写真や話さえ聞くのは怖いかもしれません。
もしも、自分が生贄に選ばれる時代に生まれていたら・・・そのことについて考えたり、神に祈ったりするのも十分分かる気がする。
日本人がほとんど無宗教なのは、得体のしれない恐怖(ペストとか)というのがあまりなかったからかもしれませんね。
人はなぜ死を恐れるのか
人間は事物たちの秩序がそうであるような諸々の企図で建立された建造物の内へ入るや否や、死を怖れるようになる。
われわれは事物たちの秩序によって支えられているのに、死はその事物たちの秩序を乱すからである。
人間は、事物たちの秩序と両立せず、和合しない内奥次元を怖れるのである。
そうでなかったとしたら、 供犠は存在しなかったであろう。
そしてまた人間性もありえなかったであろう。
事物=労働です。
人間は労働によって人間になったのですが、それ故に事物と化した。
事物と化すということは内在性は永遠に失われ、死への恐怖から逃れる術も永遠に失くしたということ。
なるほどなぁ。
なぜ「死」を怖れるのかって、やはり死んだら今まで積み重ねたこと全て無になってしまうからという空しさと、社会から一人外されてしまうという孤独感、自分が死んでも何も影響がないという強烈な自己否定から成ってる気がします。
労働や社会がなく、生きるとか死ぬでもなく、息をして食べて寝るだけならそんな色んな種類の怖れを感じることもなかった。
バタイユは、感情を色んな言葉で表現しようとしても、表現しきれないものがある・・・と書いています。
この気持ちはよく分かって、どちらかというと会話のときに思います。
会話のときは伝えたいことの半分だって伝えられていない気がするのです。
自分の気持ちを言葉にしてるのに、これじゃないなぁってもの。
出来事に関しての楽しかった、つまらなかった、辛かったとか、そういうものは言葉に置き換えられるけど、自然の美しさや恐怖や、懐かしさ、空しさ、そういうものは言葉で表現しきれないと思います。
「桜が散って切ないな・・・」という表現に、ありのままの桜が散る様子で悲しんでいるとは思いませんよね。
咲いてすぐに散ってしまう様子を、自分の中の経験や悲しみに照らし合わせて言っていると思うから、経験を言葉にしなくても、その人が感じている切なさを感じることができる。
切ない、悲しい、憂う、戸惑う・・・など、「桜が散って・・・」に続くものを選ぶ表現の幅において日本は出来るだけ言葉に出来ない感情を表現したのではないかなぁ・・・と思う。
バタイユが散々唱えてきた、死への恐怖やそこに起因する宗教は、出来るだけ言葉に置き換えられています。
書籍なのだから当たり前なんですけど、これほどのことを言葉に置き換えるのはとても大変かつ心苦しいことだったんじゃないかなぁと思います。
言葉にしないで心の中で思っている内は鮮明に生きているのに、言葉にした瞬間に色褪せて死んでしまうような感覚が、バタイユから感じるんですね。
そこから「ダメだ・・・」とならずに、言葉を紡いでいったバタイユ・・・。
まぁ何が言いたいかと言うと、大変理解が難しかったということです。
「コレね!」という言葉がとても少ない。
加えて、「事物」とか馴染みのない言葉が連発されるので、バタイユの熱量は伝わるけど「う・・・うん・・・ん?」みたいな心境になりました。
岡本太郎はみんなバタイユは難しいというけれど僕にはとても理解できた。とか書いていた(「無条件に差し出すのだ」とか二人は言葉がどことなく似てるのに気付いた)ので理解出来る人はもちろんいると思いますが、私は多分1割も辿り着けていない気がします。
一つ思うのは、これは翻訳のせいと言うわけではなくて、やはり自国の言葉と翻訳では無理があるんじゃないかなぁと思うんです。
多分、今新たな翻訳家が翻訳しても、日本語に訳そうとしたら難しい言葉を使ってでしか現わせない内容なんだろうなぁと。
日本は頭と脳と分けて単語がありますが、頭しかない国もあるわけで。
だからと言って原文は読めないので、ここはいったん他のフランスの思想家たちの本も読んで行って、理解を深めようと思います。
バタイユ、難しいけどテーマはすごく好き。