謎のカルト教団と革命の予感。自分の元から去った女性は、公安から身を隠すオカルト教団の中へ消えた。絶対的な悪の教祖と4人の男女の運命が絡まり合い、やがて教団は暴走し、この国を根幹から揺さぶり始める。神とは何か。運命とは何か。絶対的な闇とは、光とは何か。著者最長にして圧倒的最高傑作。
今までの中村さんの作品が薄かった(ページ数が少ない)から、長編と言えどもこんな大きいの!?とびっくりしてしまいました。
ページ数が多いのも納得ですが、情報量がとにかく多いです。
単純にカルト宗教の話だと思って読むと、先入観との不一致で不満に思うかもしれません。
性、善悪、神、宇宙・・・どこに重点を置くかで感想は大分変わると思うし、人の琴線に触れてくる部分が多すぎて、まとめるのが難しいです。
ただ、単純な宗教の話ではないことだけは確かです。
この書評は長いですが、出来れば最後まで読んで頂けたら、もしくは最後だけでも 読んで頂けたらと思います。
世界とは無関心の悪によって成り立つ
ここは世界から見捨てられた村。
誰も来ようとしなかった。あなた以外は。あなたが来なければ、私は結核で既に死んでいた。私にとっては、私の村に来なかった人々は無に等しい。私に何もしてくれなかった人間の同情などいらない。
そんな人間たちの道徳など聞く必要はない。
最初から思いっきりネタバレしますが、教団Xの教祖は医者でした。貧しいアジア諸国を回り医療を行っていました。
そこでたった今、医療を行い、救った少女にこう言います。
「全ての服を脱ぎ足を開け。お前は逆らうことはできない。もしお前が逆らえばもう私はお前の治療はしない」
少女は黙って服を脱ぎ足を開きます。
しかし若き教祖はそれを不可解に思います。
当然ですよね。
救ってやるから身体を差し出せよ。
っていう不道徳なことを言っているのだから。
しかし彼女は言うのです。
「あなたが私の神です」と。他国の道徳など、命の重さなど関係ないと。
ここで問いたいのは、本当の悪とは何か?ということです。
人間とは自分を善人と思いたい種族であり、世界とは、無関心の悪によって成り立つ。
少女に対しての教祖の凌辱を悪だと糾弾する人間は、変わりに少女を助けられたのだろうか?ほんとうの悪というのは、無関心なのではないか?
こう言うと、少女を助けるためなら何をしてもいいのか?と憤りを感じる人もいると思います。その気持ちは分かります。だけど、「助けるためなら何をしてもいいのか?」というのはとても他人事に聞こえませんか。
もしも現実に自分が不治の病に冒されていたとき、そんな道徳は何も私を救ってくれることはなく、目の前の医者と名乗る男が悪魔だろうが、男が手を施さなければ自分が死ぬんだとしたら、他のどんな偉い人の言葉だろうが、神様だろうが、全世界の道徳だろうが何にも役に立たないと思いませんか。
他の人が無関心に通り過ぎた村に立ち寄った男。
それだけで、他のどんな無関心な人間よりも少女には意味のある人間になる。
無関心な人間が放つ道徳より、実際に関わりを持つ人間にこそ意味があるのではないか。
この無関心の悪は教祖だけではなく、高原という男も感じていたことです。本書のテーマの一つがこの「無関心の悪」だと思います。
因果関係のはなし
この本を読むまえに「酔歩する男」を読んでて良かった。
量子力学の話がたくさん出てきます。分子とか電子とか原子とか。
そこに加わってくるのが「物語」です。
あー複雑に絡み合っていて、それを巧みに書いちゃうところが本当にすごいよなぁと思います。
物語に関しては「掏摸」や「王国」に出てくる木崎が話しています。俺がお前の物語を書いているとか、書きかえるとか、お前が人生の中で選択していることは実はすでに決まっていることだぜ、的なことです。
因果関係についてはこんなことです。
世界には犠牲が必要なのかもしれない。流転する歴史の中で、定期的に、犠牲となる存在を世界は欲するのかもしれない。
・・・選ばれてしまう存在というものが、この世界には・・・。
そのことによって、多くの善を発生させることができるのだとしたら
犠牲⇒善
犠牲が発生することにより善が生まれるという関係です。
この逆はあり得ない。
そもそも善という概念は悪がなければ生まれない。
これはエロティシズムにおける死が生を讃えると同じような理論だと思います。
悪が善を讃える。つまり悪がなければ、犠牲がなければ平和は生まれない。
平和という概念さえない世界がいわゆるユートピア。
↑この小説の世界観はまさにそうだと思う。
ここからそもそも第二次世界大戦はなぜ起きたのか?そもそも貧困な国はなぜ貧困なままなのか?という話に発展していきます。
タイトルが「教団X」というのは、全てを包んだ言葉なのかなと思います。
戦争も貧困も飢餓も性も善悪も神も、苦しみも、不条理も・・・そういう色んなものが詰まっているように感じます。
性のはなし
人間同士における最も濃密なコミュニケーションがセックスであるとしたら、相手の拒否でしか満足できない私は全てから弾かれている。
セックスシーンが多いです。
そして教団Xとは、フリーセックス集団みたいな感じです。
中村さんの作品で性的な描写がないのってあるのかな。全部読んでいないので分かりませんが、死をテーマにするならエロティシズムの概念のもと、必ずセックスはつきものと思っています。
そもそもなんで子どもを必要としないセックスをするのかって話なんですが、これはバタイユ論で言うと、人間が唯一残された内在性への回帰がセックスということになるからです。
内在性っていうのは意識がない状態、つまり動物に戻ることになります。
人は理性を持っているから死を認識し怯える。動物は死を恐れたりしない。その日その日を生きる。それだけです。
内在性へ戻ろうとするとき、人は「死」の恐怖から逃れられます。
これは別に「死」に直通するものじゃなくても、孤独とか寂しさとか空虚とか後々死に行きつくような感情も入っていると私は考えます。
男性は疲れているときほど精力が増すというのは一般的に死ぬ前に子孫を残そうとする本能と言いますが、それと死ぬ前に死という概念から逃れようとするためかもしれないなぁと思います。
もうこの教団は終わる。
僕はまた社会の中に放り出される。
もう僕は一人でオナニーするだけの生活になるかもしれない。時々風俗に行けるかもしれないけど、基本的にはずっとオナニーをし続けて人生を終えるかもしれない。
でもそれでいいんです。
性とは素晴らしいんだから。
(中略)
この教団からそれを学んだんです。
どんなにそれが醜く苦しいものに思えたとしても、性それ自体は素晴らしいんだって。性に苦しんでいたとしてもいつかきっと、それが素晴らしいものだと思える時がくるって。
この教団の 女性達は僕を拒否しなかった。
社会から弾かれた僕を受け入れてくれた。
初めてだったんだ、この世界で、何かに受け入れてもらえたのは。
彼女達は僕に教えてくれた。・・・そうでしょう?
皆、何かと繋がりたい。
繋がり方はそれぞれで、血の繋がりから、国を超えてボランティアで繋がる方法もある。
その繋がり方に善悪が混じることもある。
繋がりたくても弾かれるときもある。
初期と比べると、中村さんの作品は何か一筋の光が見えて終わるようになったなぁって思います。全部を読んでいないけど、「銃」や「遮光」ではあともう少しのところで消えてしまった光が、今は見える。
生きるって繋がること。
目の前に差し出された手が悪魔だろうが、神様だろうが、誰かと手を繋いでいなきゃ生きてくことは出来ない。
善人は誰にとっても善人なわけじゃなく、悪人もまた全員にとっての悪じゃない。
やらない善よりやる偽善。
やっぱり、戦争はどこの国にだって起きてほしくないよ。
この書評を書き終えてから、Amazonのレビューを読みました。
低評価に書かれていた「セックスばっかり」「宗教の説明が弱い」「内容が薄い」「何が言いたいか分からない」「最期が陳腐な終わり」というような意見に対して、これが世間なんだろうなって思いました。
恐らく"謎のカルト教団"という言葉が、怪しい宗教団体に主人公が洗脳されていくようなイメージを持たせ、そのようなイメージで手にする人が多いからかと思います。
本書では苦しんでいる人、辛い恋をしている人、脅迫されている人など出てきますが、教祖は言います。「お前が選んでいるんだ。」と。
宗教に入る人に対して、「心が弱い人」とか「洗脳されている」「宗教団体が騙している」という評価を下す人がいます。
だけど、騙されていようが本人が望んで入っているのです。
本書の中には何度も「今なら逃げだせる、今逃げなければもう帰れなくなるだろう。」というように自分で理解していながら、逃げないことを選ぶようなシーンが出てきます。
感想は自由です。この本を受け入れられない人もいるだろうし、それが事実レビューに表れています。
別にレビューが荒れていようが読む人は読むだろうし、異を唱えるわけではないです。ただ、不謹慎かもしれないんですけど、やっぱりなっていう気持ちになりました。
本書は世間的に印象の良くない、宗教、セックス、不道徳が本当に悪なのか?というテーマを掲げていると思うのです。
私は、この作品を気持ち悪いと思う人が多いほど、世間的に自分の道徳を押し付けることが正しい風潮であると思いました。
宗教⇒洗脳
フリーセックス⇒不潔
不道徳⇒悪
という設定の元に自分たちが自ら他人の物語を作っているんです。
それらを選ぶ人間は物語からズレた、と認識され、正しい結末に戻るように促されます。
それは「王国」での木崎と同じではないのでしょうか。
自分の価値観で他人の求めていることを罰する。
本書に出てくる宗教団体、フリーセックス、不道徳なシーン(見捨てられた村の少女の話)で、当事者たちは何も拒否していません。強要されていません。
自分で選んでいるんです。
その選択を許さず、世間の道徳を自分の意見のように振りかざすのは木崎のやっていることと同じではないのでしょうか。
セックスシーンに対して「女性は簡単には濡れない」とか「女を分かっていない」というレビューがありました。
本書の中で「今まで私はイったことがなかった・・・」とある女性が独白するシーンがあるのですが、このセックスシーンが必要なのは普通のセックスと意味合いが違うからだと思います。
カップルでも夫婦でもセフレでも信じているものが一致している人、もしくは相手が信じているものを知っている人はいるでしょうか。
そもそもそんなことを考えるでしょうか。
卑猥なセリフを言っても受け入れられる環境、どんなに乱れても受け入れてくれる状況、どんなに壊れても見ててくれる人がいるという安心。
私はここにすごく「解放」を感じるんです。
本書は基本的には社会的にマイノリティな人たち(中村さんの作品は大体そうですが)が登場人物です。
世の中のどれだけの人がほんとうの自分を相手に見せているのか分かりませんが、恋人でも家族でも夫婦でも一線を引いて生きている人がほとんどなんじゃないかと思います。
親しき仲にも礼儀有りの精神で。
もしくは自分でも自分の欲望に気付いていないか、気付きたくないと見てないフリをするか、興味がないか。
フリーセックスの根源はエデンへの帰還です。
エデンにいれば人間は労働しなくても認められた。
知恵の実を食べエデンを追われ、のちに罪人の子供となった人類は労働を背負います。
そして労働とは動物と人間を区別する手段です。
つまり、身一つで価値があるのだと、生きているだけで認められる存在だということを表しているんだと思います。
労働力がなければ認められない社会で、教団Xはエデンだったわけです。
何が言いたいかというと、本書は最初っから希望を目指して描かれているということです。
中ほどで書きましたが、善が讃えられるためには悪が必要です。
数々の悪は最後の希望への伏線だったと思うのです。
そして「悪」と認識するのは、読者の、世間の、道徳というフィルターです。
そういうフィルターを暴露した本かなーと思っています。
目の前に突きつけられた感覚です。
かなり長くなりましたがここまで読んでくださった方、ほんとうにありがとうございます。
もし未読でこのページに辿り着いたという稀有な方がいましたら、ぜひ一度手にとってみることをオススメします。