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本では「怒り」よりも「信じる」ことに思考が偏っていましたが、映画では犯人が残している「怒り」というメッセージが伝わってきます。 やっぱり映画ってすごいな。噛み砕いて出してくれるので分かりやすい。
引金を引いたのは誰?
かわいそうとか思ったのがマズイっすよね?
だって他人見下すことでギリ保ってた奴ですよ?
そんな奴、憐れんだら虫ケラ扱いしてるのと同じっすよ。
そりゃ殺されちゃうっしょ。
事件当日、犯人は道に迷い民家の玄関先で項垂れていた。そこに家主が帰って来て「家になにか用か?」と尋ねる。男は去っていったが、家主は暑い中項垂れていた男を心配して麦茶を用意する。その行為が殺されるきっかけになったという解釈です。
分かっちゃうんだよねぇ
こう目と目が合うわけじゃん?
そうすっとさ、
あ、こいつオレのことコロっと気に入っちゃうな~とか
見ぬけんの面白いよなぁ
なんでそんな簡単に見ず知らずの人間、信じちゃえるんだろうな?
お前、俺の何知っててはなから信じられるわけ?
人を無邪気に信じる人間への「怒り」。
それを善しとする社会への「怒り」。
それが理解出来ない「怒り」。
殺人者に対して無意識に「殺しちゃうほど、何かがあったんだよね?そうだよね?だから止むを得ず殺してしまったんだよね?」っていう感情に対する「怒り」。
信じるってことは押し付けともとれます。
「ね?信じてるからそんなことしないよね?」「君はいい子だから親を悲しませるようなことをしないよね?」とか。
逆に、東京編の二人のように。疑うことが信じることに繋がる場合もある。
「俺、お前が何か盗んだりしたらすぐ警察に言うからな。」って言葉をどう取るか?疑われている、と取るか、信じられている、と取るか。
言った本人は疑いの気持ちから言葉にしたのに、受けては信じられていると取る。こういう話し手と聞き手が、全く噛み合っていないのが本作の特徴で、結果に辿り着くまでは噛み合っているようにも見えるのだ。
これってたぶん、私たちの日常もそう。
都合いいようにしか解釈していない。
というか、出来ない。
沖縄編の若い二人がメインです。米兵にレイプされた泉と、そのことを知りながら嘲笑うかのように誹謗中傷を壁に書き連ねた逃亡犯・田中。
事件当日、泉と一緒にいた辰哉は後悔と、もう事件前の泉には戻らないんだという絶望の中にいました。
泉は事件以来ふさぎこんでおり、この島にもう二度と来ないかもしれない。
だからこの文字を見ずに一生を終えるかもしれない。でも、それでも消したかった。彼女の名誉と誇りを守るために。
名誉と誇りは目に見えないから、どれだけ傷付けても大したことないと思っている人がいる。だけど命は目に見えるから大切にする。
「たかが言葉じゃん」っていう考えは罪深い。「デブ」とか「ブス」とか、そういう悪口がなぜいけないのか。だって本当のことじゃん!っていう反論に対して「人の嫌がることをしてはいけません」という道徳ではちょっと弱い。
だけど、その言葉が「人の名誉と誇りを傷付けるから」と思えばどうだろう?「本当のことを言っただけ」っていう意識じゃなくて「人の名誉と誇りを傷付けた」という意識の方が罪の意識はより深くなるんじゃないかと思う。
泉がもし何も知らずにあの言葉を見たら廃人になるんじゃないかと思う。あれを見て壊れなかったのは、辰哉が必死に消そうとした痕跡が残っていたから。誰かが自分を守ろうとしてくれたっていう痕が見えたから。
言葉って当たり前すぎて考えもしないことの方が多いけど、立派な武器です。だからこそちゃんと扱えるようにならなくてはいけないなって思います。
扱えるようになりたい!じゃなくて、正しい扱い方を身につけなくてはならないものだと考えています。
対人間だから、ケースバイケースで答えはない。でも、人の名誉や誇りを守ることに間違いや悪は絶対ないよね?
傷ついて立ち直るために必要なのは自分以上に自分を大切に思ってくれる人の存在だよ。