≪内容≫
「私は無益で精巧な一個の逆説だ。この小説はその生理学的証明である」と作者・三島由紀夫は言っている。女性に対して不能であることを発見した青年は、幼年時代からの自分の姿を丹念に追求し、“否定に呪われたナルシシズム"を読者の前にさらけだす。三島由紀夫の文学的出発をなすばかりでなく、その後の生涯と、作家活動のすべてを予見し包含した、戦後日本文学の代表的名作。
「告白の本質は不可能だ」という福田さんの解説(?)に書かれていることが、本書の本質だと思います。
曝け出しているつもりでも、そこには無意識の防御がある。
そう感じます。
"このまま"ではいられない
どうしてこのままではいけないのか?
少年時代このかた何百遍問いかけたかしれない問いが又口元に昇って来た。
何だってすべてを壊し、すべてを移ろわせ、すべてを流転の中へ委ねねばならぬという変梃(へんてこ)な義務がわれわれ一同に課せられているのであろう。
こんな不快きわまる義務が世にいわゆる「生」なのであろうか?
生きるって自由じゃないですよね~。
付き合ってる人がいる→いつ結婚するの?
学校を卒業→どこに就職するの?
転職・退職→この先どうするの?
いつもそのときそのときでオチをつけなきゃいけない。
その場所に留まることはできないんですよね。
世の中には流れがあって、「男女の交際」とか「職業の記入欄」とか、そういう当たり前に存在する言葉が、説明する必要がない事項ということで、義務になっています。
全く女性に欲情しない主人公は、それが当たり前なので、他のクラスメイトが説明なしに当たり前に発する言葉の意味が掴めない。
それが意味するのは、自分が異質だということ。
自分の素面は通用しない社会で仮面を被ることを選択した主人公。
ただ、"当たり前"は説明する必要がないから"当たり前"なのであって、説明書たるものがない。
その為に、彼は強引に勉学に努めた。
その勉学の厳しさ、難しさ、辛さが本書に事細かく書かれていて、鬼気迫るようなものを感じました。
誰しも仮面をかぶることはあると思いますが、それに肉がつくまでかぶる人って少ないんじゃないでしょうか。
ある人の前ではかぶり、ある人の前では外し、そうやって一種のファッションのように使えるものである筈が、それなしでは生きていけないものとなる人生。
人生の厄介なところは、自分で自分を認めても、他者に認めてもらえなければ生きていけないところだと思う。
無感覚という痛み
・・・余人にはわかるまい。
無感覚というものが強烈な痛みに似ていることを。
私は全身が強烈な痛みで、しかも全く感じられない痛みでしびれると感じた。私は枕に頭を落とした。
十分後に不可能が確定した。
恥じが私の膝をわななかせた。
義務観念のもと、女を抱こうと決心する主人公だが、ディープキスしても何にも感じない。そしておそらくたたなかったのだ。
話は、同性愛者の主人公の告白であり、内容は想像がつく内容ですが、こういう表現のひとつひとつに驚かされます。
無感覚が強烈な痛みに似ているなんて、私は分からないし全く新しい考えでした。
ここで思ったのは、中村文則さんの作品の主人公たち(人を殺したり、殺そうとしたりしてしまう人)は、一般の人間が持つ"友情"や"愛情"、"敬愛"という感覚に対して無感覚であり、それは一般人には理解出来ない強烈な痛みとして、本人を蝕んでいるのかもしれない・・・ということです。
たぶん、今の時代では「普通でなくたっていいじゃないか」と気軽に言える人も多いだろうし、一般的にマジョリティ派における人たちの中にも「普通とは何か?」と考える人もいると思う。
だけど、この無感覚の痛みに関しては全くの盲点でそこまで考えることが、私は出来なかった。
私は「別に普通でなくたっていいじゃん。自分の人生なんだからさ」と言いたいのですが、それって痛みを知らないからなんだろうなって思います。
"当たり前"の感覚があるから、それを元に言っているのであって。
もしその痛みを知っていたら、「そうだよね。それってすごく痛いよね。何とかして少しでも当たり前を感じたいよね」って言葉になるんじゃないか・・・って思いました。
人間ならぬもの
苦しみはこう告げるのである。
「お前は人間ではないのだ。お前は人交りのならない身だ。お前は人間ならぬ何か奇妙に悲しい生物だ」
誰も愛せないとか好きになれないって、人間失格なんじゃないかと思うときがあります。
だって、有名な「人間失格」を書いた太宰治だってたくさんの女性と交わっているし、ゲーテは老人になっても恋愛しているし、バタイユだって結婚しているし、世の中の作家・芸術家・哲学者とは、人の業や死について考えを巡らせながらも、業への一歩である恋や愛を絶対に拒絶しない。
それらが自分を破滅させるかもしれないとしても、それらと交わったことで自分がいかに孤独かを思い知ることになったとしても、受け入れる器を持って生まれてきたんだと証明しているような気がする。
なんだかんだ言っても、その器こそが人間というものなんじゃないのか、と思ってしまうんですよね。
だから、誰も好きになれない、愛せない状況にいる私は、この「お前は人間ならぬ何か奇妙に悲しい生物」にグサっとやられてしまいました。
どんなに頭が良くても、どんなに天才的な医者でも、ノーベル賞取ったりしても、その人にパートナーがいなければ、少し可哀相に感じたりしませんか?
それは誰かと交わるということが、人間としての義務だからだと思うのです。
頭が良くて、高級取りで、ぜいたく三昧している一人ぼっちの富豪より、貧しくても、家族で支え合い生きている人間たちの方がよっぽど豊かで、人間らしい生活に私には見える。
ロボットが人間を愛してしまい人間になりたいと思う。
奇妙に悲しい生き物は、人間になりたいがために誰かを愛したいと思う。
仮面の告白は、視点を変えれば誰でも共感出来る部分があるのではないかと思う。誰だってたまにはサッと隠してしまう素面があり、懐に仮面を忍ばせている。
だけど、その仮面が告白したことは仮面によっての告白であり、素面での告白ではない。
素面の告白は存在しないと、私は思う。
どこからが素面で、どこからが仮面かなんて自分でもきっと分からないものだから。