≪内容≫
ある町で突如発生した連続通り魔殺人事件。所轄の刑事・中島と捜査一課の女刑事・小橋は“コートの男”を追う。しかし事件は、さらなる悲劇の序章に過ぎなかった。“コートの男”とは何者か。誰が、何のために人を殺すのか。翻弄される男女の運命。神にも愛にも見捨てられた人間を、人は救うことができるのか。人間存在を揺るがす驚愕のミステリー!
連続通り魔事件を追う刑事のお話。
本を読むって面白いですね。
この手のあらすじだと田哲也さんのストロベリーナイトが思い浮かびます。
あらすじが似てても書き方とか、導き方?視点?が全然違う。
当たり前なんですけど、当たり前に気付くのって数こなさなきゃ出来ないんだな~って思いました。
刑事・中島
お前はいつも忙しくしていなければならない。自分以外のことについて、常に考え続けていなければならない。
自分に向き合えないから。
向き合うわけにはいかないから。僕は忙しさの中に逃げていく。まるで刑事から逃げる犯人のように。
心のどこかで、僕は事件を望んでしまっている。
事件を追う刑事、中島に心の闇が。
う~ん。ストロベリーナイトの玲子さんと似てる~!でも違う~!
彼は幼い時に、同じような境遇の男の子に自分の家を燃やさせた。そしてその男の子は自分を信じていた。「自分がやったんだから、君もやってくれるよね?」と。
しかし、彼は出来なかった。そして男の子は両親に殺されてしまった。
そのとき、中島はホッとして、そのホッとした感情が自分を戒め続けているのでした。
仕事って楽だな~って思うときがあります。
都合がいいというか。
「仕事だから」という言葉に救われるときってありませんか?
面倒な親や恋人との関係、考えたくない現実、そういうのから手っ取り早く逃げ出せる道を示してくれるのが仕事。
でもその道ってきっと悪魔の道なんですよね。
だって仕事が無くなっても、逃げ続けた現実はそのまま残ってますもんね。
他人のこと考えるのって心地よいですし。
役に立ってる、誰かのためになってる、誰かを助けてる、そういうのって実は逃げなのかもしれない。
科原さゆり
もし、私のしたことを全て話して、中島さんが受け入れてくれたとしたら。こんな卑怯なことを、私は思っていいのだろうか?
いいわけがない。いいわけがない。
でも、それでも、もう一度、誰かの優しさに触れたい。
許されなくても、全ての人から、非難されても、少しだけ、あと少しだけ、誰かの優しさを-。
生きたい、そう思っているのだった。
事件のキーパーソンとなる女性の自殺を後押ししたと思い、自責の念に苦しむ女性。
そして、中島が救いたいと思っている女性。
自分が誰かから虐げられれば、誰かに優しくしてもらえるとか、愛してもらえるとか、そういう風に思ってしまう女性。
愛する男から、他の女と地獄に落ちたいから別れたいと言われれば、その女を超える地獄を身につけたいと思う女性。
これが現実だと思うと悲しいけれど、最近読んだこの本に、愛を知らないで育った子供は永遠に愛に飢えているという言葉がありました。
子供のころに味わった快楽や苦しみが、そのまま嗜好になるのかな・・・と。
好き好んで苦しむ人なんかいない!って思う人もいるかもしれませんが、無意識で苦しんでいることが日常だと思ってしまうのではないか?と感じます。
お金持ちと金銭感覚が違うのは、家庭環境もそうだし、お金の使いからの価値観が違うから。
私はたぶんお金持ちと結婚して、ブランド物に囲まれて「愛しているからいくらでも使っていいよ」と言われても、居心地が悪くて幸せは感じられないと思います。
それは、私にとっての普通はスーパーのチラシを見て買い物に行く母と、毎日会社に行く父、そして欲しいものは自分で買うという家庭で得たものだから、そういう
家庭の中にしか普通が見つけられないんだと思います。
↑この心理は
この誕生日を知らない女の子 虐待――その後の子どもたち の中の「愛着障害」という「虐待的な絆」の部分を読むと分かりやすいかもしれません。
科原さゆりのような女性を見て「可哀相な女性・・・」とも思えるのですが、じゃあ私の思う「普通の幸せ」を押し付けてもそれは彼女にとっては居心地が悪いものなんじゃないか、と思う。
幼少期の家庭環境が全てとは言いません。
ただ、自分の幸せを具体的に素直に思い描けなければ、それは絶対に手にすることは出来ない。
思い描かなければ、記憶に縋るしかない。
状況を打破するのはいつだって自分なんですが、こういう作品を読むと他者との繋がりがなければ打破することも出来ない、という視点も生まれます。
真田
・・・たとえば、駄目な男にばかり惹かれる女っているだろ?そうするとね、俺はまるでその女を満足させるために駄目になっていくんだよ。
痴人の愛のナオミの男バージョンのようですね。
真田は結局女の求めている男になっているんですよね、願望を叶えている。そして、自分の願望も叶えている。
だけどじゃあ願望って正しいのだろうか?というのが私の疑問です。
「これが私の願いよ!」って言葉に「それおかしくね?」っていう返事ってあまりなくて、大体が「ふ~ん、好きならいんじゃない?」が多い返事だと思うのですが、これって聞き手としたら相手には相手の考えがあるんだから否定したくないなぁという感情があると思います。
でも、言っている本人の無意識に「これが私の願いよ!(これって間違っていないよね?)」があるんじゃないかな?と思いました。
ただ、この願望に対して「いや、それちょっとおかしいと思う」と言えるのは家族や親友くらいじゃないか?と思います。
そして、だからこそ、家族や親友がいない、もしくは希薄な人こそ陥るのではないか・・・と思うのです。
自分では「私ダメ男とばかり付き合ってるなぁ・・・」と気付いていても、親や兄弟から「あんた、ダメ男とばかり付き合ってるけど大丈夫なの?」と言われたら傷付くでしょう。
だけど、そこで自分の世界と、他人が見ている自分の世界が違うことに気付くのです。
「ダメ男だけど、いいとこもあって・・・」
「ふーん、でも殴られてるじゃん」
「でも殴ったあとは後悔してすごく泣いていて・・・」
「ふーん、あんた泣く男が好きなの?」
・・・あれ?私どんな男が好きなんだっけ!?
泣く男?暴力のあとに優しくする男?
平凡な幸せが欲しいと思っていたけど、そういう幸せを手にするためには、どういう人と一緒にいたらいいんだろう?
となりませんかね?
一人で考えるのは限界があると思います。
限界、というかどうしても狭くなってしまう気がします。
だから、自分でも具体的に考えて、誰かに具体的に現状を話す。出来れば客観的に。
難しいし、人の幸せはそれぞれだからなんとも言えないけど、自分の人生って自分だけのものなんですが、そうじゃないんですよね。
家族だけじゃない。
職場の人、近所の人、同級生たち、ふとしたときに「あいつ元気でやってるかな?」と思ったりするものです。
特別仲良くなくても、「あの子結婚したのかしら?」とかいうおばちゃんいるじゃないですか。
煩わし!と思っても、薄っぺら!と思っても、自分が知っている人間には笑っていて欲しいと思うものです。
幸せはそれぞれでも、その象徴にやっぱり笑顔があるから。
無理なく、本心で笑えるような人生であってほしいと思う。
村上春樹の言っていた、文学という毒を扱うには健康な身体でなければならないというのが、よく分かる。
こういう本を連続で読むと、読んでいるだけなのに精神にクる。