≪内容≫
小学四年生のぼくが住む郊外の町に突然ペンギンたちが現れた。この事件に歯科医院のお姉さんの不思議な力が関わっていることを知ったぼくは、その謎を研究することにした。未知と出会うことの驚きに満ちた長編小説。
こちらはSF大賞受賞作ということで、ペンギン×SFというなんともソソられるコラボではないですか。
これは主人公が小学生ということもあって、少し児童書のような感覚もあります。
読みやすく、どちらかというとファンタジーよりに思いました。
映画化されましたね!
ぼくはたいへん頭がいい
他人に負けるのは恥ずかしいことではないが、昨日の自分に負けるのは恥ずかしいことだ。一日一日、ぼくは世界について学んで、昨日の自分よりもえらくなる。
こんなことを考える小学四年生のアオヤマ君が本作の主人公です。
この台詞胸に焼きつけたいわぁと思いました。
一日一日、ぼくは世界について学んで、昨日の自分よりもえらくなる。
これぞ真理だなぁ。
誰のためでもなく、金のためでもなく、将来のためでもなく、昨日の自分よりも少しでも成長したい。
それを小学生なりにいうと「えらくなる」ということなのだろうと思う。
なんで毎日本を読むかって、昨日の自分よりも知識を持っている自分になりたいし、昨日の視界より澄んだ視界が欲しいし、昨日の心より大きな心が欲しい。ただそれだけ。
アオヤマ君に教わるところはたくさんある。
アオヤマ君はたくさんの研究をしている。
クラスのボスであるスズキ君についてはスズキ君帝国の研究。給水塔の裏側の研究はプロジェクト・アマゾン。
そして、もう一つとても大切な研究が出来た。
それはお姉さんの研究だ。
アオヤマ少年の通う歯科医院のお姉さんは、おっぱいであり美しい造形を持ち、ペンギンを作り出す不思議なお姉さんなのだ。
そう、この物語はアオヤマ少年による初恋は叶わないという迷信の証明なのだ。
死ぬことと永遠に会えなくなることは何が違うのだろう。
アオヤマ少年は己の無自覚の恋を永遠に失われた時に気付く。
恋に無自覚でありながらたいへん頭のいいアオヤマ少年とその周りの大人たち、クラスメイト、そしてペンギンとお姉さんの海を作り出す物語。
全ての生命の源である海の物語・・・といった方が正しい気がする。
ペンギン・ハイウェイというタイトル、哲学の子アオヤマ少年とペンギンを作り出すお姉さん、アオヤマ少年を癒すおっぱいという神秘・・・ユーモア溢れるキャラクターのおかげで、重いテーマだと思いませんし、重く感じないのですが、これは"海"の物語なのです。
お姉さんとは何者なのか
それならば、なぜぼくはここにいるのだろう。なぜここにいるぼくだけが、ここにいるお姉さんだけを特別な人に思うのだろう。
なぜお姉さんの顔や、頬杖のつき方や、光髪や、ため息を何度も見てしまうのだろう。
ぼくは太古の海で生命が生まれて、気の遠くなるような時間をかけて人類が現れ、そしてぼくが生まれたことを知っている。
ぼくが男であるから、ぼくの細胞の遺伝子がお姉さんを好きにならせるということも知っている。
でもぼくは仮説を立てたいのではないし、理論を作りたいのでもない。ぼくが知りたいのはそういうことではなかった。
そういうことではなかったということだけが、ぼくが本当にわかっている唯一のことなのだ。
お姉さんはぼくらの世界の生き物ではなかった。
では何なのか、どこから来たのか、それはお姉さんにも分らなかった。
なぜペンギンを作るのか、なぜご飯を食べなくても元気になるのか謎は謎のままであった。
私の考察は、お姉さんは母性がそのまま擬人化されたものと見ています。
ペンギンは子供、ペンギンを食べるジャバウォックは大人、給水塔の裏に出来た"海"はお姉さん自身。
①お姉さんは元気になると、ペンギンを作る。
②ペンギンは海を壊す。
③海が壊れるとお姉さんは元気がなくなる。
④お姉さんは元気がなくなるとジャバウォックを作る。
⑤ジャバウォックはペンギンを食べる。
⑥ペンギンが少なくなるから海が安定する。
①に戻る。
これは"海"という母なる大地から見た人間界のサイクルなのではないかなぁと思います。
作中アオヤマ少年と仲良くなるハマモトさんという美少女が出てきます。
しかしアオヤマ少年は「ハマモトさんにはおっぱいがない」と言います。同じ子供であるハマモトさんは性別は女だけど、そこにおっぱい(母性)はまだ生まれていない。
哲学の子は常に脳を働かせているので、糖分が必要になる。
そこでアオヤマ少年の脳を癒すのが「おっぱいケーキ」である。
哲学の子アオヤマ少年は偏っている。
知識だけを求め、他人の感情よりも正しいか理論に沿っているかを大事にするため、他人の感情に気付かない。
えらくなって、そのうちたくさんの女の子に言い寄られるかもしれない。という少年だが、彼は自分から動くことは全く考えていない。
考えていないのではなく、考えられないのだ。
自分のことは分からなくても"誰誰が誰誰を好き"というのはなんとなく分かるもの。もちろん小学四年生という年齢を考えると、そこまで他人の心を見ない子供もいるだろうが、子供というのは駆け引きが出来ず経験もないので、結構丸分かりだったりする。
そういう意味でアオヤマ少年はとても閉鎖的だ。
別にコミュニケーションが取れないわけでもないし、他人をいじめたり癇癪持ちなわけでもなく、ひたすらに自分と対峙している。
それは言いかえれば孤独なのだ。
他人から求められることを求めず、自分も求めないという、無自覚な孤独。
お姉さんはそんなアオヤマ少年を包むべくやってきたのだと思う。
少年の世界と価値観をぶっ壊しにやってきた。
私は男ではないので、少年期がない。
有名な「きれいなおねえさんは好きですか」がどれだけ少年の心に突き刺さるかは分からない。
だけど、アオヤマ少年のような無自覚で閉じている少年にとっておねえさんという美しく母性を持った女性というのは、神秘的なものなのかなぁと思う。
いつも研究をして仮説を立てて論理的に生きてきたアオヤマ少年は出会う。
でもぼくは仮説を立てたいのではないし、理論を作りたいのでもない。ぼくが知りたいのはそういうことではなかった。 そういうことではなかったということだけが、ぼくが本当にわかっている唯一のことなのだ。
お姉さんによって気付かされたもう一人の自分と。
生きるとは、答えのない道をひたすら進むことだと思う。
海にとって人間なんて、きっと永遠に子供なんだろうと思う。
子供も大人もなくて、自分が産み出したものへの愛だけがある。
アオヤマ少年はもう一度お姉さんに会うために、昨日の自分を上回り続ける。
人を明日へと全力で動かすものは、大いなる母性なんだろうなぁ・・・と私は思った。
毎日がスペシャル
本作と「太陽の塔」を読んで思ったのは、これって特別なことじゃないよなってことです。
たぶん私たちの日常でもあると思う。
恋人にフラれ諦めきれずヤキモキしたり、小学生の頃に大人にときめいちゃったり・・・っていうのは多かれ少なかれ誰しも経験があるんじゃないかなぁと。
それを面白ろおかしく、すこし不思議(SF)にしているのが森見さんなのかもしれない・・・と思いました。
逆に言うと毎日がスペシャルで、どんなことも面白く考えることができるし、些細なことだって、自分次第でどこまでも壮大な物語になりうるということになります。
悲観的もよし、楽観的もよし。
どちらの方がより良いなんてものはなくて、どれだけ日々を楽しめるかってことが人生という答えのない道を歩き続けるコツなのかもしれない。
大いなる大地へ続くペンギン・ハイウェイを私たちも歩いている。
世界の果ては折りたたまれて、世界の内側にもぐりこんでいる。