≪内容≫
依田いつかが最初に感じた違和感は撤去されたはずの看板だった。「俺、もしかして過去に戻された?」動揺する中で浮かぶ1つの記憶。いつかは高校のクラスメートの坂崎あすなに相談を持ちかける。「今から俺たちの同級生が自殺する。でもそれが誰なのか思い出せないんだ」2人はその「誰か」を探し始める。 (講談社文庫)
「名前探しの放課後」は「冷たい校舎の時は止まる」に似ていて、「誰か」を探す話です。
今更ですが、ここまで読んでやっと辻村さんの小説って登場人物多いなーって気付きました。男女グループが多いし、何かいつも集団行動しているなぁと思いました。
「子どもたちは夜と遊ぶ」の復習/共有
「あすなちゃんが痛みを自覚するよりも早くそれを察知して走り出してくれた人がいたから、あすなちゃんは蜂が痛かったことを覚えてないんだよ。それ、むしろ怪我の記憶じゃなくて、おじいちゃんの記憶だもん」
子どもたちは夜と遊ぶでは「痛み」がたくさん出てきました。
その痛みをどうするか。
回避する、無視する、見なかったことにする、受け止める・・・
自分に降りかかってきた痛みに対して、人はどう向き合うのか。
自分が傷付いたとき、自分以上に痛みを感じてくれる人がいたら。
その傷は一瞬の、その時だけの痛みで終わる。
表面的な傷が治るのは自然治癒や自分の生存本能だとしても、心の傷が治るのは周りに自分の傷を共有してくれる人がいるから。
共有してくれる人がいる内は気付かない。
傷は勝手に癒えると思っているけれど、本当はひとりでに癒えているわけじゃない。
「いなくなってから気付く」というのはこのことだとも思う。
本書「名前探しの放課後」も、傷を共有する話になっています。
共有出来る人が見つけられないまま自殺してしまった同級生の傷を共有するために戻ってきた。
「ぼくのメジャースプーン」の復習/傷
「恋人と別れたとか、家庭内で両親がうまくいってないとか。傍から見てると大きな傷に見えなくても、当人にとっては世界が揺らぐほどの大事件だってことが、きっと毎日どこかでたくさん起ってる。」
ぼくのメジャースプーンで起った事件も当事者以外の人間は当事者がPTSDになっているなんて、壊れてしまった人間がいるなんて思いもよらないでしょう。
殺されたのはウサギであって人間じゃない。
そんな現場を目撃してしまったとしても、自分に危害があったわけではないのだから・・・と思う人もいるでしょう。
まさに傍から見てると大きな傷に見えなくても、当人にとっては世界が揺らぐほどの大事件というのはきっと毎日どこかで起きてる。
ストーカーにあった、痴漢にあった、教師から罵声を浴びせられた、クラスの男子から「近寄んなブス」と言われた、クラスの女子からハブられた、勉強についていけない、親が離婚した、お母さんが帰ってこない、お姉ちゃんが家出した、お兄ちゃんが事故にあった、部活のレギュラーから外された・・・
それでも平然とした顔をして毎日をやり過ごすことが出来る人もいれば、一生の傷を背負うことになる人もいる。
それぞれが持っている傷の度合いも、重大さも他人には計れない。
それなのに「そんなことで」っていう心無い言葉をかけてしまう人がいる。特に大人です。
「そんなことで落ち込んでどうするの、お母さんがあんたくらいの時はもっとあーでこーで・・・」「今時の若いものはすぐへこたれるからなぁ」「根性がない」とかね。
それで立ち直れる人もいれば、傷が深くなる人もいる。
面倒くさくても、パターン化してはいけないと思う。
この事件ならこういう度合いの傷の深さで、こういう話ならこれくらいで立ち直れるだろう、とか・・・
世の中に売っているメジャースプーンはもちろん規格に沿った大きさなわけだけど、私たちが生まれたときから心に持っているメジャースプーンは生き物だから。
大きさも深さもその事件によって変わっていく。
だから他人を自分のメジャースプーンで計っても何も分からないのだ。
きちんと間違える
前だったら、誰か他人に練習を聴かれるなんて、絶対に考えられなかった。だけど今は、きちんと間違えることができる。「大丈夫、もう一度やろう」そういう椿の声を、素直に聞くことができる。
ここがすっごくいいなぁと思いました。
辻村さんの作品て読者と距離が近いんだろうな、と思いました。
いつもどこかに自分を見つけることが出来る。
本を読んでいると、絶対的な第三者として「ふんふん、へぇーそうなんだ、で?そんで?」と読み進めるものと「分かる!こいつは私じゃ!」と感情移入してしまう作品があるのですが、辻村さんの作品は絶対的な第三者として読み進めて行くのに何ともないぽろっとした部分でハッとさせられる。
そうだよね・・・。それが大事だよね・・・。みたいな。
私は主人公のいつかのように笑ってごまかしたりしてしまうし、あすな程ではないですが、かっこ悪い自分を見せたくないと思うところがあります。
だから予防策として最初から出来ない体(てい)で行くか、失敗したら笑ってごまかすとか、成功も失敗もしない範囲で曖昧にやり過ごす、という選択肢を取ってしまいます。
ゆえに、不器用ながらに突き詰めていける人間に対して尊敬と嫉妬の感情を持っていました。
そういう人間をカッコイイと思いつつも、失敗することで周りの人間に笑われるんじゃないかとか、失敗した私を励まそうと気を遣わせるんじゃないかとか、失望させるんじゃないかとか、他人ばかり気にして自分を守ってました。
でもそうやって生きていくと、要領は良いんですけど空しいんです。
たぶんこれが主人公いつかの空虚感だと思います。
きちんと間違えられない、ってことは逃げてるってことなんだと思います。
成功も失敗もうやむやにして「まぁいいじゃん」で見ないようにしているだけ。
何かを見ないようにしている内は、他のものなら出来るはず!と思っても見えないものなんですね。
きちんと間違えるって簡単そうに思えてすっごく難しいと思います。
だって逃げる方が楽だし、逃げたら死ぬわけじゃないし、逃げても生きていけるから。更に言うと、そこから空しさを感じない人もいるだろうし、空しさも見ないふりすることだって出来る。
しかも自分では逃げてることに気付かないと思うんです。
だから、傷は共有した方がいいんです。
傷を指摘されることは「ほっとけよ、うるせえな」と思うときがほとんどだと思います。触れられたくない、「あなたには関係ないでしょ」という正論をぶっかけることができるし。
でもそうやって一人で抱えても癒えないし、他人を遠のけても消えないんです。
向き合うしかないんです。誰かを巻き込んで。
辻村さんの作品にたくさんの登場人物が出てくるのは、たくさんの人間がいるんだよっていうメッセージなのかなぁと思います。
「私にはあなただけ」じゃなくて、友達のその友達も、友達の彼氏も、その彼氏の友達も繋がっているんだよ、共有できる人間はたくさんいるんだよ、ってことなのかな、と。
「ぼくのメジャースプーン」の二人が見れて嬉しかったです。
希望はあるけれど、どんな未来か分からない終わり方だったので、二人の成長した姿が見れたことでも泣きました。
だから最低限で「ぼくのメジャースプーン」は読んでおくことをおすすめします。
本人が真剣に向き合おうとしているなら、巻き込まれる方って意外にどんと来い超常現象だったりしませんか。