≪内容≫
聖羊祭日にドーナツを食べた呪いの為クリスマスソングが作曲できない羊男は、穴のあいてないねじりドーナツを手に秘密の穴の底におりていきました。暗い穴を抜けるとそこには――。なつかしい羊博士や双子の女の子、ねじけやなんでもなしも登場して、あなたを素敵なクリスマスパーティにご招待します。
羊男が好きです。
「耳をぱたぱたとはためかせた」的な表現が大好きです。
番外編羊男↓
羊男のクリスマス
ある夏の日、羊男はクリスマスのための音楽を作曲して欲しいと羊男教会の羊男から依頼を受ける。
意気揚揚と作曲に取り組む羊男だったが、全然うまくいかない。
羊博士に聞いてみると、それは呪いがかかっているからだという。
かくして羊男の呪いを解く旅が始まる・・・。
羊シリーズに出てくるキャラクターがいます。
私は羊シリーズで一番好きなのが1973年のピンボールの双子でした。
だから、この絵本に208,209となって登場してきたときすっごい嬉しかったです。
さて、村上春樹といったらドーナツが出てきます。あとサンドイッチ。
羊男世界ではドーナツが主流のようなので、このドーナツについて考えてみたいと思います。
ドーナツというのはとても深い意味を持っているではないか。
そう初めて考えたのはこの作品を見たとき。
羊男が食べているのは穴の開いたドーナツ。
しかし穴の開いたドーナツを食べたせいで呪いがかかってしまったので、呪いを解くための旅には「ねじりドーナツ」を持っていくことにしました。
こんなヤツ。
そもそもなぜ「ねじりドーナツ」を選んだのか?
ドーナツには穴のあいていないドーナツだってねじってないドーナツだってあるわけです。
こういうヤツ。
なのになぜ穴の開いたドーナツとねじりドーナツを選んだのか。
ドーナツの穴
今日では色んなドーナツがドーナツ屋に売られているので、揚げパンとドーナツの違いがよく分からない私です。
ただ、ドーナツと言われて思い浮かぶのは真ん中に穴のあいたものだと思います。
穴があいてるからドーナツなのか、穴がなくてもドーナツと思うか。
もしくは自分たちに見えていないだけで、空洞の部分にも何かがあるのだろうか。
手で持てる部分、感触を与えてくれる部分、食べられる部分、味覚が反応する部分だけがドーナツなのか。
さて、羊男がなぜ呪いにかかったのかというと、12/24に穴のあいたドーナツを食べていたからです。
「いいかね、十二月二十四日はクリスマス・イヴであると同時に聖羊祭日でもあるんだ。つまりこの日は聖羊上人が夜中に道を歩いておられて、穴に落ちて亡くなられたという神聖な日なんじゃ。
だからその日に穴のあいた食物を食べちゃいかんというのは昔むかしからきちーんときまっておることなんじゃよ。
マカロニとか、ちくわとか、ドーナツとか、イカ・リングとか、たまねぎの輪切りとか、そういうものをな」
と羊博士は言います。
しかし羊男は疑問に思います。
「ちょっとうかがいたいんですが、どうして聖羊上人様は夜中に道を歩いておられて、どうして道に穴なんかが開いていたんですか?」
羊博士は
「知らん、分かるわけないだろそんな昔のこと、でもとにかくそう決まってるんじゃ」
と言います。
ここがとっても羊シリーズらしい部分だな、と思いました。
どうして聖羊上人様は夜中に道を歩いておられて、どうして道に穴なんかが開いていたんですか?
こういう不条理なことに意味や原因を求めても何にもならないのです。
無意味なのです。
ただ、そのとき穴があって穴に落ちて死んだ。
それ以上もそれ以下もない。
生きていく中でたくさん出会うこと。
「どうして私かこんな目に」「なぜ君がこんな目に遭わなければならなかったんだ」そういうことがきっと今でもどこかで起っていて、その穴はドーナツの穴のように見えないのです。
あるのに、見えない。
ドーナツの穴を「穴」として認識出来るのはなぜでしょう?
穴を囲む輪を認識しているからです。
輪が作られるからこそ「穴」が生まれる。
「輪」という言葉で何を思い浮かべますか。
私は何かと何かがくっつくイメージが浮かびます。
それは国と国だったり、人と人だったり、悪と悪だったり、様々です。
他国と結んだ輪に入れずに穴に落ちる者。
人と人との輪に入れなかったり入れてもらえなかったりして落ちていく者。
悪と手を繋ぐことを善しとせず、穴に落ちていく者。
集団は穴を作る。
それなのに穴を見ようとしない。
穴はあるのに、輪だけが在るものとして認識される。
穴は無視されている。
穴は必要?
じゃあ穴のないドーナツを選べばいいじゃないか。
それなら誰かが穴に落ちる心配もない。
なぜ羊男が穴のあいたドーナツとねじりドーナツを選んだか、なぜ穴のないドーナツを選ばなかったのか、私はこう考えます。
それは穴のない人間などいない、ということでもあり、穴があるからこそドーナツなのだということでもあり、穴に落ちたらねじれてこんがらがったものを解きながら昇って行くしかない、ということなのだと。
仕方なく羊男はもう一個ねじりドーナツを出して、そのねじりめをほどき、まっすぐにのばしてからねじけにわたした。
「ほら。なんともないでしょ、まっすぐでしょ。大丈夫だからお食べなさいよ。おいしいですよ」
ねじけはそれを受けとってもぐもぐと食べたが、それでも泣きやまなかった。
羊男は自分の働くドーナツ屋には穴のあいていないドーナツはねじりドーナツしかないと言うのですが、これはつまり穴が開いているか、ねじれているかの二種類しか人間にはない、ということなのだと思います。
ねじりドーナツはねじりめをほどけばまっすぐになるけど、そのねじりめを誰かにほどいてもらってまっすぐになっても何も解決しない。
だからねじけは泣きやまない。
私が考える穴とは、「あるのに見えないもの」です。
そしてそこを覗いてしまったらうっかり落ちてしまうかもしれないし、絶望してしまうかもしれない。
はたや一生気付かずに終わるかもしれないし、知っていて目を背けることもできるもの。
穴に落ちた羊男が出会った人たちは、ひねくれ者ですぐ泣く左ねじけ、森の中でしか生きられない双子、掃除が苦手な偏屈海ガラス、人の苦しみを推奨するひねくれた右ねじけ、姿を見せないなんでもなし・・・それから羊博士に聖羊上人。
表立たない、人の側面のようなキャラクターたちが穴の中にはいました。
そして羊男はそんな一癖も二癖もあるキャラクターたちにかこまれて、メロディーが浮かびピアノを弾けるようになったのです。
恐らく、羊男がピアノを弾けなくなったのは呪いでもなんでもないのです。
ただ色々と上手くいかなかっただけなのです。
だけど、その、ただ色々と上手くいかなかっただけのせいで穴に落ちてしまう人はとても多く、落ちてしまえば昇っていくのはとても難しい。
だから羊男が落ちる前に、穴に見せかけた入口を作り羊男を招いたのです。
入口があれば出口がある。
羊男が招かれたのは出口のない穴の中ではなく、入口があり出口がある異空間です。
その中で色んな不可解な出来事に巻き込まれ、そういう理不尽な目にあっても、不条理なことが起きても、結果的に笑えること、そういうことを受け入れることが出来たから、みんなの笑顔が見れて自分も楽しくなれたのです。
出口から出た羊男は二度とみんなに会うことはできません。
だけど、みんなのような所謂ダークサイドを受け入れること、好きになることができたから戻ってこれたのです。
穴というのは、ダークサイドであり、毒のようなもの、自分では受け入れがたいものなのだと思います。
だけどそこを失くして、目に見えるものだけで生きていくのはたぶん不可能。
普段は目に見えない、見ないようにしている部分が、本当は自分を救う一部だったりするわけです。
それは自分を壊す部分になるのかもしれないけれど、その穴をどう見るかは自分次第。
穴の中はやさしい世界だった。
だからこういう言葉が生まれる。
「羊男世界がいつまでも平和で幸せでありますように」。