≪内容≫
それ自体には使い道はないかも知れない。でもその風景は別の何かの風景に、おそらく我々の精神の奥底にじっと潜んでいる原初的な風景に結びついているのだ。エッセイと写真の美しいハーモニー。
私はほんとうに村上春樹をすごいと思う。
いや、すごいというと語弊があります、なんというか「よくぞ言葉にしてくれた」という感覚が一番近いかもしれません。
そして、エッセイも大好きです。
「移動するスピードに現実を追いつかせるな」、それが旅行者のモットーである。
旅行先で写真を撮る
僕らは旅行に出て何十枚、何百枚もの写真を撮る。ある場合には、ある風景が僕らの心を特別に強く引きつけて、それをずっとあとまで記憶するためにカメラのシャッターを押すこともある。
でも残念ながら、僕らの写した写真が、僕らの目にした風景の特別な力を写し取っていることは、極めて稀である。
今はInstagramとかありますし、友だちと出かけてカフェとか行くと綺麗なパンケーキが出てきたりするのでどーしてもパシャっとしてしまいます。
なるべくやめようと思っています。
別に写真が悪いと思っているわけではないのですが、そうやって写真をとることで今を蔑ろにしちゃっている気がするんです。
なんですかね、こんなことを思わない人もいると思うし、写真は写真で今は今と切り替えられる人はいいと思うんですが、私は写真に収めることで「記録に残したからオッケー」みたいな感じで、目の前にある食べ物に対して一期一会という感覚を失ってしまうんですよね。
たぶん、写真を録らない、カメラを持っていない、スマホを忘れたってときなら「目に焼き付けてやる!!」と殊のほか一所懸命に向き合うと思うんですよね。
しかも写真に収めるとがっかりすることが多い。
「なんか違うんだよな・・・」って思う。
特に自然を映したとき。
自然の壮大さを切り取ることは出来ないんだなぁ、と実感するときでもあります。
過ぎ去って、もう戻ってこない
現像されて戻ってきた写真を見て、僕らはこう思う、
「いや、ここに何かもっと別のものがあったはずなんだ。これだけじゃないんだ」
でも僕らがそのときに目にして、そのときに心をかきたてられたものは、もう戻ってはこない。
写真はそこにあったそのままのものを写し取っているはずなのに、そこからは何か大事なものが決定的に失われている。
でも、それもまた悪くはない。
僕は思うのだけれど、人生においてもっとも素晴らしいものは、過ぎ去って、もう二度と戻ってくることのないものだから。
写真を録っても、そこで感じた温度とか匂いとか、周りの音とかまで写し撮れないじゃないですか。
風景ってたぶんそういうものも含めて心をかきたてるんだろうな、と思います。
プロのカメラマンさんとかは、こういうものも一枚の写真に収められるのかもしれない。
近々この写真展に行きたいと思っています。
ニューヨークが生んだ伝説 写真家 ソール・ライター展 | Bunkamura
たまに「帰りたい」と思うことがあるのですが、明確な場所じゃなくて、どんよりとした雲の日に友人と笑いあっていた道だったり、照りつけるような太陽の下で厭々ながらに歩いた広島市内だったり、思い出す景色っていうのは場所じゃなくて温度や色彩が明確なんです。
そのときの気持ちじゃなくて、自然の色と自然の温度。
そういうものを感じ取れる写真を見てみたい。
自分でそういうものを取れないなら、その瞬間をもう忘れられないってくらい焼き付ける気持ちで向き合いたい。
何度も失うのはイヤだから。
使いみちのない風景の意味
それじたいに使いみちはないかもしれない。でもその風景は別の何かの風景にーおそらく我々の精神の奥底にじっと潜んでいる原初的な風景にー結びついているのだ。
100万枚撮ってやっと一枚見つかるようなものなのかもしれない。
その他の99万枚は使いみちのない写真。
だけど、写真を撮るとき「すごいな」「きれいだな」「絶景だな」と思って撮るのだろうから 、それはそのときは分からなくても、自分の中の観念と紐づいているのだろうと思う。
その写真を見て、そのときの事柄を思い出そうとするならいや、ここに何かもっと別のものがあったはずなんだ。これだけじゃないんだ」と思うだろうけど、何も考えずに改めて写真を目にしたとき、それは他の何かに繋がっているのかもしれない。
最近、芸術に触れまくっているせいで感化されまくっています。
昔なら「ふうん」で終わっていたことが全然終わらないのです。
それを友人に言ったら「芸術っていうか、人の頭の中覗くの超楽しいよね!」って返信が来ました。
本も写真もアートも、そして人のブログも。
やはり剥き出しだからこそ面白いなぁ、楽しいなぁ、と思います。
なんでこんなこと考えたw
なんだこれwww
というのが大好きです。
昔なら「なにこれ、変なの」で終わっていたのに、今は「なにこれ、ウケるwwなんなの、この人ってなんなの?!」っていう好奇心に変化したように思います。
何度もカンボジアのときの写真を見返すんですけど、やっぱり違う。
写真で見る遺跡、テレビで紹介されている宮殿、もちろん伝わってきます。すごいな、きれいだなって思います。
だけど、やっぱり自分の目と肌で感じるものは格別です。
動かない景色も生きているのだな、と思います。
旅行は好きです。
だけど、それは失われることが前提です。
お金をかけて、足を使って、時間をかけて、何かを得ようとしてみても、写真に残すという足掻きを見せても、失われていくのです。
だけど失うから、美しいのだと、失うから、何度も求めるのだと、私は思います。