≪内容≫
狸の名門・下鴨家の矢三郎は、親譲りの無鉄砲で子狸の頃から顰蹙ばかり買っている。皆が恐れる天狗や人間にもちょっかいばかり。そんなある日、老いぼれ天狗・赤玉先生の跡継ぎ〝二代目〟が英国より帰朝し、狸界は大困惑。人間の悪食集団「金曜俱楽部」は、恒例の狸鍋の具を探しているし、平和な日々はどこへやら……。矢三郎の「阿呆の血」が騒ぐ!
これは・・・3を期待できる気がします!
まだまだ続きそう・・・!!わくわく
1を見なくても分かるけど、見た方が分かります。アタリマエ
主人公・矢三郎も好きだけど、次兄が好きなのでした。
「有頂天家族 二代目の帰朝」は次兄の大きな一歩でもあります。
狸から蛙になり、戻れなくなってしまった次兄は戻れるのか・・・!
やわらかな賢さ
次兄は子狸の頃からボンヤリしていて、光輝く才能を見せびらかすことなど皆無に等しく、ほとんど馬鹿だと思われていた。狸らしくもなくいつも淋しげで、熱血漢なところはカケラもなく、万事において漠然と頼りない。しかしそのやわらかな賢さのようなものを、どれほど私は好きだったことであろう。
私もどれほど好きだったことであろうか・・・。
みんながみんな自分のことで精一杯か、相手を思い通りしようかとしたり、自分の能力をひけらかす中で、次兄は人の悩みをじっと聞いていたり、争いごとにやんわりと仲介に入ったりするような受け入れる狸だったのだ。
こういう人間は本当に少ない。
自分の失敗や恐怖より、相手や全体を見ることのできる目をもつ人間。
少なからずみんなが自分自分で生きている。
誰かのことを思った上で自分はどうするべきか、どうやって生きようか、何が出来るだろうか、みたいに結局は自分に回帰する。
昔から強くなりたいと思っていたのですが、その強さの概念は年々変化していきます。
一番最初に思った中学生のころは、hideのように強く優しい人間になりたいと思ったし、それからも誰かを守れるような強さだったり、励ませられるような人間になりたいと思っていたけれど、今は柳のようにしなやかな強さに憧れています。
どんな嵐にもされるがままに揺らされて、だけど折れることのない柳のように、しなやかで柔らかくて、自然のままに生きていきたい。
愛とは押しつけるもの
なぜなら愛とは押しつけるものだからですよ。どこに理路整然と説明できる愛がありますか。食は万里を超え、愛は論理を超える。僕は自分の狸愛を諸君に押しつけることによって、諸君の内なる狸愛を呼び覚まそうとしているのであります。
金曜倶楽部という妖しい会合の忘年会のメニューは狸鍋なのです。
主人公・矢三郎の父は狸鍋になって死んでしまった。
一巻では狸鍋推奨派だった淀川教授は今では根絶派になりました。
色々あって。
食べちゃいたいくらい好きなのよ、という感情と、好きだから食べない、という感情。
どちらも「好き」なのに、結果は雲泥の差です。
これもまた本書の面白いところ。
人間の何とも複雑怪奇なことよ。
よく見るということは、よく愛するということ
どうだい、じつにスバラシイ狸たちだね。菖蒲池画伯の天才があますところなく現れている。これが見る力というものだよ。よく見るということは、よく愛するということなんだ。
狸への愛の深さゆえ、かくも迷いなき線が引ける。
物理的に見るとか聞くとかって見えていないし、聞けていないんですよね。
見ている気になっている、聞いてる気になっている、というのが近いですかね。
毎日歩いている道に何があるか、普段聞いてる音楽の歌詞を覚えているか、と言われると「あれ?あそこなんだっけ?」「あれ?昨日なに聞いてたっけ?」ってことが多いのではないでしょうか。
ちなみに意識的に聞くぞ!!見るぞ!!と思っても見えないし聞こえないのです。
それはなぜかと言うと、聞くや見るという状態に集中しちゃって、肝心の風景や音楽は自分の都合に合わせて写し取られてしまうのです。
なのでまさによく見るということは、よく愛するということなんだ。
というのがよく見る、よく聞く、に繋がると思います。
だって愛そうと思ったら、対象を知りたい、理解したい、って気持ちになるじゃないですか。
これは人間だけじゃなくて、風景や音楽でもそうで、もし何かを突きつめたいとか思うことがあれば愛そうと思うといいんじゃないかな、と思います。
私もなんで毎日本読んで、感想書けるかって愛してるからだと思うんです。
本を書いた作者も、作品のキャラクターも、読んでる時間も、愛しいなと思う。
ゆえに読書も、ただ読むのとよく読むのでは全く違う手ごたえになると思います。この小説を知りたいと思うほど深く潜れる。
有頂天家族の中身にほとんど触れていませんが、狸のドタバタ日常ってだけです。
それだけなのに、すっごく癒されるし、すっごく面白いのです。
実はあの銅像も、狸が化けているのかも・・・。