≪内容≫
小説家になるためにはどうすれば良いのか?小説家としてデビューするだけでなく、作品を書き続けていくためには、何が必要なのだろうか?プロの作家になるための心得とは?デビュー以来、人気作家として活躍している著者が、小説を書くということ、さらには創作をビジネスとして成立させることについて、自らの体験を踏まえつつ、わかりやすく論じる。
森博嗣、私が思うにあっさりとして無駄のない人。
うん、すごく・・・合理的?というのかな、無駄がない。
だから分かりやすい。
分かりやすく、正確で簡潔、というとても親切な人だな、と思います。
お父さんとか上司とか、おじちゃんくらいの距離でこういう人がいたら、それだけですごい財産だろうな~と思う。
不自由は気楽
規定され、道が標され、不自由になることは「気楽」なのだ。だから、仕事にもなんらかの不自由さが必要になり、それを手に入れて安心をする。ビジネス書、ノウハウ本の類が売れるのは、このような「不自由」を多くの人が求めているせいだともいえる。
(中略)
いかなるノウハウ本も、人を自由にしてくれないだろう。それは、ノウハウ自体が不自由を導くものだからだ。
したがって、小説家のためのノウハウ本など絶対にありえない。
小説家ほど自由な職業はないし、自由を拠り所にする人種はいない、と書かれています。
なんか嬉しくなります。
というのも、小説家に限らずですが、音楽もアイドルもスポーツ選手も「好きでやっている」という姿勢が絶対条件で、そこに「やらされている感」とか「締め切りに追われている感」とか「お金の為」や「計算」という感じが滲み出てくると、とても悲しくなってしまう。
なぜかというと、前者は自由ですが、後者は何かに縛られている感、もしくは条件付きの自由といった感じで、とても窮屈に感じてしまうからです。
私はこんな縛られている人間を好きなのか・・・むしろ縛っているのは応援している側なのか・・・と悲しくなる。
だから、表現者というのは自由であるべきだし、むしろその自由さこそが最大の魅力なのです・・・だから縛られないで下さい!!というのが私の考えです。
後日談とかで、小説家が「実はあの本は編集に言われて無理矢理ひねり出して書いたんですよ笑」とか、アイドルが「あのときはアイドルというか芸能界に入る手段として活動してたんですよね~」とか、こちらの勝手な受取りですが、すごく裏切られた感といいますか、すごくバカにされてる感があってイヤです。
たとえ本人でも作者でも、作品自体を愛してる人間がいるのに、それを軽んじられたような気持ちで悲しくなります。
だから、表現者は「誰かにやらされて」ということはしてほしくないなぁって思います。
そんな人間周りにいっぱいいるし、むしろそんな人間が作るものなら自分で悩みとか愚痴とかノートに書き綴った方がマシです。
文章と文字
相手にどう伝わるのかを考えずに書くことは、ほとんど意味がない行為である。
自分に対するメモでさえも、将来の自分がどうそれを読むかを想像する。その想像をしないで書いているとしたら、それは「文字を書いている」だけで、「文章を書いている」のではない。
否、文字でさえ、その形を他者はどう捉えるかを予測して書かなければ、記号の意味がなくなってしまう。
世にある悪筆・悪文というのは、ようするに想像力の欠如から生まれるものだ。
「体調日記」なるものを先月から書くようになりまして。
文字通り、今日の体調を記録する、という一行二行でササっと書くくらいのもので、体調管理のひとつとして始めたのですが、これが読み返すと全然参考にならなかったんです。
理由は書いてるのも読むのも私だから全然未来の私に分かるように書いていないんですね。
「O月O日 朝、ちょっとダルイ。少し頭痛有。眼精疲労有。」
みたいな感じなので、後から読むと、「ダルイってどうダルイの?少し頭痛ってこめかみ?おでこ?首の付け根らへん?どこ!?眼精疲労のレベルはどれくらいなの!?」と、謎だらけで、情報にさえならないただの文字と化していました。
書いてる当日は、実感しているのでこの内容で伝わるんですが、後日体調がいい時に読んでも全く分からないんですよね。
まさに想像力の欠如です。
なのでこの本を読んでから未来の私の参考になるように書くことにしました。
「O月O日 朝、起きても強い眠気があり、朝食を食べてもぼうっとしている。うっすらとおでこに鈍痛有。眼精疲労のせいか何度も目薬をさすが目が渇く」
みたいな風に書くことにしました。
実際、体調が悪いときは文字にするのも億劫なのですが、痛みってその時じゃないと忘れてしまうので、事細かにどれだけ辛いか、何が苦しいか、を書き留めるようにしました。
今年の目標である、無遅刻、無早退、無欠席を実現すべく、読む人が私であっても、ちゃんと想像力を働かせて記録していこうと思いました。
小説の存在理由
小説の存在理由は、「言葉だけで簡単に片づけられない」ことを、「言葉を尽くして」表現するという矛盾にあり、その矛盾に対する苦悩の痕跡にある。
これが「ノウハウ本」との違いなのかなぁ、と思います。
いわゆる答えがないのが小説だと思います。
そこで、答えらしきものを見つけられた!と思っても、それは自分の成長や精神状態で変わるだろうし、同じ本を読んでも、その時々でモヤっとしたり、スッキリしたり、永遠に謎・・・っていうような気がします。
なんですかね、今ふっと思ったのですが、小説を読む人間というのは人一倍誰かに頼りたくない人間なのかもしれません。
ノウハウ本のように、「こうしたらいいよ!」「こうすれば上手くいくよ!」という誰かが見つけた答えに甘んじたくない。
人は人、他人は他人、という意識が人一倍強い気がしてきました。
どんなに遠回りしても、どんなに不器用でも、自分で答えを見つけたい。自分が感じたモヤモヤや矛盾と向き合いたい、そういう負けず嫌い(自分に対して)なのかもしれません。
昔はよくノウハウ本を読んでいたんですが、やっぱり他人が見つけた答えなので、どうしても腑に落ちないことがあるんです。
それを無理に「素直にやってみるんだ!」みたいに推し進めると、心と身体の均衡を崩しておかしくなります。
これほどおかしいことはありません。
良くなろうとしておかしくなるなんてね。
つまるところ、ある人にとっては良薬でもある人にとっては毒だったりするわけですから、どれだけ時間がかかっても自分のための薬は自分で見つけるしかないってことだと思いました。
対人間だったり、対本だったり、色んなところに落ちてるかも。
拾っては捨て、失くしては見つけ。