≪内容≫
図書館で「オスマントルコ帝国の税金のあつめ方について知りたいんです」とたずねたぼくに、老人の目がきらりと光った。案内された地下の閲覧室。階段をおりた奥から、羊男が現れて…。はたしてぼくは、図書館から脱出できるのか?村上春樹と佐々木マキが贈る、魅力溢れる大人のためのファンタジー。
大好きな羊男シリーズ。
だけど今回は脇役な羊男。
歯を磨いていない羊男。
ドーナッツの粉を自分でこねる羊男。
柳の枝に震える羊男。
「羊男のクリスマス/村上春樹~ドーナツの考察~ 」の記事を読む。
図書館に行ったら・・・
かんたんな内容↓
図書館に本を返しに行ったついでに本を借りようと思ったら、地下室に案内された。
そこには一人の老人がいて、地下室で本を読んで行けと言う。
心配症の母が待っているからと断ると、老人は大きな声で怒鳴り出したので、僕は従ってしまう。
地下には羊男がいた。
そして僕は地下牢に入れられ、3つの本を読み終わるまで出さないと老人に言われてしまう。羊男は本を読み切ったら、老人は君の脳みそをちゅうちゅう吸う気なんだと教えてくれた。
そこから脱出しようと僕と羊男、それから食事を持ってきてくれる謎の美少女は考える。
新月の夜に脱出しようと扉を開けると老人がいた。
老人は羊男を柳の枝でたたき、黒い大きな犬に僕を襲わせようとしたが、むくどりに変化した少女が助けてくれたおかげで、僕と羊男は地上に出ることが出来た。
だけど、僕の隣に羊男はいなかった。
家に帰ると心配症の母は何も言わなかった。そして原因不明の病気で亡くなってしまった。
ぼくはひとりぼっちになった部屋の中で、あの図書館の地下室のことを考えている。
新月と朔、始まりと終わり
村上春樹は表と裏、入口と出口など、そこにある光と闇を描きだす作家のような気がしています。
物事には始まりと終わりが、人間には生と死が。
そしてこの物語には新月と朔がある。
新月は物事の始まり、スタートに良い日、願いが叶う・・・などのポジティヴな意味がつけられ、朔の後に初めて見える月のことである。
朔は月と太陽とが同じ方向にあって、月から反射した太陽光が地球にほぼ届かずに暗い様子であり、強い太陽光の影響とで地上からは月が見にくい状態にあること。
新月に夢が叶う人間もいれば、新月に何もかも奪われてしまう人間もいる。
<良い月です>と少女はくりかえした。<新月が私たちの運命をかえてくれます>
<新月のせいなの>と彼女は言った。<新月が私たちのまわりからいろんなものをうばっていくの>
本書の内容はこの世界観にすごく似ていると思います。
主人公は無関心なのです。
美少女が、「新月のせいで力が弱まったせいであなたと一緒には行けない」と言ったとき、帰り道が分からないという少しの不安はあったけど、それはたいした不安ではなく、彼は深く考えもせず羊男と出口を目指します。
そして彼は音を立てないように新しい皮靴を脱いで出口を目指します。
皮靴が音を立ててしまうと老人が起きてしまうかもしれないからです。
老人が起きると、自分は脳みそを吸われ、羊男は毛虫が詰まった瓶に閉じ込められてしまいます。
羊男は僕と一緒に逃げなければ罰を受ける必要がないのに、僕と一緒に逃げようと決心してくれたのです。
それなのに、僕は皮靴のことをずっと考えています。
非常に個人的な人間ですよね。
こういうとき、自分の靴よりも自分の安全よりも自分のために動いてくれている羊男が罰を受ける羽目にならないようにってことを考えたりしませんか?
僕にとって、地下室にいた羊男や美少女のことは結局どうでもいいのだと思いました。自分が帰らなかったことで心配症の母がどうにかなってしまうんじゃないか、それだけが心配なのです。
だから、だから失ったのです、全て。
私が思うに、母はむくどりであり美少女なのです。
個人が個人として生きていくためには色んなものに守られているのです。
それに気付かずに生きるということは、知らずに失うということなのです。
そして失ったものは永遠に戻らない。
もしも皮靴を脱がなかったら?
この物語のキーポイントは新月と皮靴にあって、8割くらい皮靴にあると私は思っています。
「職業としての小説家」で村上さんは
あるとき僕はレズビアンの傾向を持つ二十歳の女性になるかもしれません。あるとき僕は三十歳の失業中のハウスハズバンドになるかもしれません。僕はそのとき与えられた靴に足を入れ、それに足のサイズを合わせて行動を開始します。それだけのことです。
足のサイズに靴を合わせるのではなく、靴のサイズに足を合わせるのです。
と書いていました。
主人公が母から与えられた皮靴には、どんな人生が詰まっていたんだろう?そう思えてならないです。
その皮靴は、もう二度と息子が痛い目に遭わないように、という母の願いが詰まった皮靴だったのではないか。
それを脱いでしまった彼の前には、当然のようにまた黒い犬が現れました。
そして母が命をかけて守ったのです。
なぜ、家にいた彼女が彼に何も聞かなかったのか。
聞く必要がないからです。全てを知っているから。
「ほんとうにここに、本を読みにきたくてきたんだね?」
ここで目の前の恐怖より、真実を、家で待ってる母を思って踵を返す強さを持っていたら、何一つ失わずに済んだかもしれない。
人生には取り返しのつかない選択っていうのがありますよね。