≪内容≫
僕は二度、パン屋を襲撃した。一度めは包丁を体に隠して、二度めは散弾銃を車に載せて―。初期作品として名高い「パン屋襲撃」「パン屋再襲撃」が、時を経て甦る。ドイツ気鋭画家のイラストレーションと構成するヴィジュアル・ブック。
村上春樹、パン好きだなぁ・・・。
サンドイッチとビール率高いし、他はドーナツとかスパゲッティとかだから、日本人って感じがしません。笑
まぁ"お弁当屋を襲う"じゃちょっと違うかぁ。
パン屋を襲う
とにかく我々は腹を減らせていて、その結果、悪に走ろうとしていた。空腹感が我々をして悪に走らせるのではなく、悪が空腹感をしてわれわれに走らせたのである。
労働を拒否していたので、食べるものがない主人公と相棒。
包丁一つ持って街のパン屋に乗り込みますが、パン屋の主人を襲う前に「とても腹が減っているんです」と打ちあけた主人公。
そうすると「じゃあ好きなだけ食べていいよ」と言われてしまう。
しかし、それで「あざーす!!」と食べるのでは等価交換にならないし、二人は悪に走っているので恵みを受けるわけにはいかない。
パンをもらうなら、それに相応する対価が必要だと考える主人公と相棒はパン屋の主人の提案に乗ることにした。
それは「ワグナーの音楽にしっかりと耳を傾けること」だった。
二人はワグナーの音楽を聴き、パン屋の主人の解説を聞きながら好きなだけパンをもぐもぐと食べた。
空腹感が我々をして悪に走らせたのなら、悪よりも空腹感を満たすことが大事ですが、悪が空腹感をしてわれわれに走らせたのなら、空腹を満たすことを悪より先に考えてはいけない。
何か悪事の概念って感じがしました。
本質は空腹か悪かどちらだろう?
そもそも論ですが、空腹を満たすのに悪に走らなければならない理由はないと思います。働きたくないのも結構ですが、人からの好意をお恵みと思ってしまうのもなんかなぁ。
私は空腹から生まれる渇望を社会に対しての承認欲求と重ねて読んでいたのですが、やはり渇きは想像力を奪うな、と思いました。
部屋に辿りついたとき、我々の中の虚無はすっかり消え去っていた。そして想像力がなだらかな坂を転がり落ちるように、着々と正しく動き始めていた。
つまり、想像力が上手く働かないときというのは、何か渇きなり虚無感なりに苛まれている状態なのかもしれない。
再びパン屋を襲う
時は変わって、主人公の相棒は妻に変わりました。
夜中の二時前に二人は耐えがたいばかりの空腹に苛まれることとなる。
懐かしい空腹感につい主人公はパン屋を襲った話を切りだしてしまう。
主人公はパン屋を襲った後、何か重大な間違いを感じていて、その誤謬(ごびゆう)は原理の知れないままに、自分とかつての相棒の生活にまとわりつくようになったと言う。
そしてそれを呪いなのだと、言った。
「よく考えればわかることよ。そしてあなたが自分の手でその呪いを解消しない限り、それはたちの悪い虫歯みたいにあなたを死ぬまで苦しめつづけるはずよ。
あなたばかりではなく、私をも含めてね。」
「もう一度パン屋を襲うのよ。それも今すぐにね」
「ええ、今すぐ、この空腹感がつづいているあいだにね。果たされなかったことを今ここで果たすのよ」
そして主人公は相棒を妻に変えて、再度パン屋を襲うことになった。
途中放棄した欲望はずっと消えないものか?
それとも、現状に不満があり満たされていないときに疼きだすものだろうか?
世の中はなかなか自分の思う通りには行かないものですが、実は世間に批判される前に自ら進路変更や途中放棄していることの方が多いと思っています。
特に私は自意識過剰なせいで、流行りのアイスクリーム屋に行こう!と決めて新宿やら渋谷やらに行くものの、目の前の行列や並んでいる人があまりにキラキラしている女の子やカップルだと、行こう!食べよう!と思って目的地まで着いたのに、目前にして尻ごみして「もっと空いているときに来よう」とか「もっとオシャレな感じにキメて来よう」とか、自分が帰ってもいい理由を自分に言い聞かせて放棄することが多いです。
帰らずに、並んで買って食べれば、自分の思い通りに行くはずなのに、自分で逃げてるんです。
そしてそういうのって忘れないんですよね。
自分が逃げたから。
心のどこかで「いつか」ってずっと思ってる。
妻はパン屋を襲うわよ!といいつつも深夜にやっているパン屋なんて首都圏でもないからマクドナルドを襲いビッグマックを強奪することに決めます。
なので、別になんでも良かったんだと思います。
"襲う"ってことに繋がれば呪いは解けるってことですね。
最初にパン屋を襲うと決めたときの二人のエネルギーは空中分解され、まだ空気中を彷徨っていたのだと思います。
なんでしょうね。
例えば一度掲げた夢とかって、空中分解のような不完全燃焼の場合ってなんかふん切りつかなくないですか。
あのときほんとうは~したかった。っていう後悔がずっと消えない。
それは確かに"呪い"と言っても差支えないように感じます。
そしてその"呪い"がかかったままの状態というのは世界に薄いフィルターのようなものがかかっている感じのイメージです。
だから現実をクリアに見ることが出来ない。
それはつまり、そばにいる人を傷付けたり、巻き込んだりすることにも繋がると思います。
いつだって自分の思いを止めるのは自分なんだと思うのですよ。
「だって反対したじゃん」「だってもう年だから」「だってあのときは諦めるしかなかったから」って。
この気持ちが本物ならきっと呪いはかからない。
私たちはどこにだって行けるし、何にだってなれると思う。
それを認めないのは他人じゃなくて自分自身。
若くてかわいらしい女の子たちがキャッキャと並ぶアイスクリーム屋にサラリーマンが一人汗を拭きながら並んでいました。私はもっと自分のしたいことをしようと思いました。