≪内容≫
時間が作り出し、いつか時間が流し去っていく淡い哀しみと虚しさ。都会の片隅のささやかなメルヘンを、知的センチメンタリズムと繊細なまなざしで拾い上げるハルキ・ワールド。ここに収められた18のショート・ストーリーは、佐々木マキの素敵な絵と溶けあい、奇妙なやさしさで読む人を包みこむ。
一話が10Pくらいで本当に短編!って感じでした。
これくらいの短編集って隙間時間にぴったりだなぁと思いました。
あまり深い物語や長い物語を読む体力がないときには最適です。
バート・バカラックはお好き?
世の中というのは奇妙な場所です。
僕が本当に求めているのはごくあたりまえのハンバーグ・ステーキなのに、それがある時にはパイナップル抜きのハワイ風ハンバーグ・ステーキという形でしかもたらされないのです。
村上春樹のすごいなって思うところは、こういう表現がサラーっとなんともなしに出てくるところです。
ここが言いたいところですよ!伝えたいところですよ!っていうのが全然見えなくて、読者が各々に好き勝手感じ取るようになっているように感じます。
なので、読む人にとって響く場所が全然違ってくるように思います。
上手く言えませんが、とても分かるなあと思う部分でした。
「いや違くて。私が食べたいのはただのハンバーグ・ステーキなんです。」って言い通しても、ファミレスのシステムを自分で変えられる訳ではないので、パイナップルがついた季節のメニューであるハワイ風ハンバーグ・ステーキのパイナップルを自分で取ることでただのハンバーグ・ステーキと思い込まなければならない。
パイナップルを自分でどければただのハンバーグ・ステーキになるかというと、そうではなくて、それはあくまで、パイナップル抜きのハワイ風ハンバーグ・ステーキである。
何か余分なものをどけてもそれはOO抜きのOOといった形式から抜け出せない。
自分が背負ったもの、必要のないもの、生まれながらに持っているもの、拾ったものや過去とか、そういうものをどけても何か他のモノに変われるわけではない。
そして単純に自分が欲しいものを手に出来るってことは意外に少ない。
私たちは選択しているようで、限られた選択肢の中に放り込まれ、その中から選ばされているに過ぎない。
というようなことを感じた一編。
32歳のデイトリッパー
親切なわけじゃないんだ、と僕は苦笑する。
君よりはずっと退屈さに慣れているというだけのことなんだよ。
電柱を数えるのにも飽きた
三十二歳の
デイトリッパー。
若いころの衝動は退屈から逃れるためなのかもしれない。
大人になって「落ち着く」というのは慣れと飽きなのかもしれない。
私は退屈とはあまり縁がなく生きてきたし、現在も生きているので「なるほどなあ」とは思いつつその内実はよく分かりません。
「退屈は人を殺す」というのを聞いたことがあるのですが、何で得た言葉なのか分かりません。
ただ、「何もしたいことがない」「休日がつまらない」という言葉はよく聞きます。
だから誰かと遊ぶ、誰かと飲みに行く、一夜限りの関係を持ってしまう・・・などなど。
思ってみれば何も楽しくない、ということはあった気がするのですが・・・そういう時は海外に行くのが一番いいかなあと思っています。
カンボジアに行ったとき、別にカンボジアじゃなくてもどこでもいいから非現実的な場所へ行きたいと強く思っていた気がします。
日本の行ったことのない場所じゃなくて、匂いも聞こえてくる言葉も食べ物も何もかもが刺激を与えてくれるような場所。
知らない場所に行く恐怖より、変化を求める気持ちの方が強かったように思います。
そして海外に行ったらすごくチャージされたような気になりました。
何を見ても驚きがあり、何を食べるのにも少しの疑惑がつきまとい、どこへ行くにも一人では動けない。
そしてあの大きな大きな遺跡。
世界は広いな、死ぬまで一生勉強しても知り尽くすことは出来ないんだな、って改めて思いました。
何かと関係を持つってことに限りがあると、私は考えてしまうきらいがあって。
なるだけ小出しにしたり、感情を抑えこんで、その関係なり興奮なりがなるべく長く続きますように、としてしまうんです。
飽きがこないように、ずっと興味を持っていられるようにするために、停滞を望む気持ちがあるんですね。
まあ限りの感じ方は人によってかなり誤差があると思うし、どこまで深く考えられるか、どこまでも興味が持続できるかはその人の本質によるので、「それくらいで分かった気になるなよ」って言われることでもあるのですが、それ以上があったとしても興味が尽きてしまえばそこから進むのは苦行になってしまいます。
だから一本道だと怖くなっちゃうんですよね。
あれ?もう終わりが見えちゃうんじゃない?って。
だからなるべく迷いたい、立ち止まりたい、道草食べたい。
迷うために好奇心が必要だし、立ち止まるために恐怖が必要だし、道草を食べるために空腹であることが必要だと思っているので、食べて(インプット)出す(アウトプット)ことをしているんだと思います。
でも怖いです。
いつか全てに対して無気力になりそうで。
図書館奇譚
ふしぎな図書館の前作ですかね。
ふしぎな図書館とはけっこう変わっていました。
こちらの方が詳しい?というか書かれている気がしました。
「吸われちゃたあとはどうなるんですか?」
「残りの人生をぼんやりと夢見ながら暮らすわけさ。悩みなきゃ、苦痛もない。イライラもない。時間の心配をしたり、宿題の心配をしたりしなくてもいいんだ。どうだい、素敵だろう?」
脳みそを吸われたら即死だと思っていたのですが、どうやら頭を切られても死なないようです。
今までの記憶や知識、悩みや苦しみを全部吸われちゃえば、空っぽになる代わりに何も苦痛を感じないと言うのです。
もう一度吸ってほしいという人もいるようです。
主人公は閉じ込められた図書館から脱出したあと、地下室への入口を確かめてみたい気になるが近づきたくないと思うのでした。
闇に近づくのは怖い。
だから逃げる、近寄らない。
だけど、そのことで知らぬうちに失い、損ない続けるものがある。
この話は村上春樹が執筆するときに、暗い地下へ進んで行く感覚というのを物語にしたように感じます。
私はその暗い地下とは何を指すのか、闇とは何なのか、がまだ掴めません。
それを知りたい気持ちと怖れる気持ちがあります。
これまでの読書も、これからの読書もそこへ近づくための階段なのだと思っています。一段ずつ踏みしめているような気がします。
村上作品にはよく動物が出てくる。今回はあしかが良かった。