≪内容≫
これは読書好きな人はかなり楽しめるんじゃないでしょうか。
もし読書が好きで読んでいない人がいたらオススメしたい本。
一週間くらいこの本について書評したいくらい濃厚でした。
流行りの本を10冊読むより、この1冊を読んだ方が深い充実感を得られるような気がします。
さわり程度にしかまとめられないですが、書いていきます!
神話とは、神とは
辞書の定義によれば、神話とは神についての物語です。そこで次の疑問が出てくる。
神とはなにか。
神とは、人間の生命の営みのなかでも、また宇宙内でも機能している動因としての力、ないし価値体系の擬人化です。
あなた自身の肉体のさまざまな力と、自然のさまざまな力との擬人化です。
神話は人間の内に潜んでいる精神的な可能性の隠喩です。
価値体系の擬人化
って「ほーう」と思うのと同じくらい価値観をひっくり返されました。
キリストがほんとうにいたのかとか、天照大神がほんとうにいたのかとか、分からないけど何かそういう凄い人がいたと思ってたんですよ。
だけど、神話に出てくる人物や神が実在したかなんてことはどーでもよくって、描かれているのは、私たちの生活の手助けだというのです。
私たちが今生きている時代?は、食べるために自分たちで殺さなくていい時代です。スーパーで買えばいいし、出来ているものを買えば済むし、飲食店に行けば頼んで出て来て消化するだけです。
夜が暗いと言ったって、お金を払えば夜中、明るい世界を作れます。
なので、神話の必要性はほど遠いのは仕方ないことと思います。
そもそもなんで神話が必要なのか、というか出来たのかというと、私が思うに、やはり恐怖があったからだと思います。
恐怖と好奇心って紙一重じゃないですか。
食べ物にありつけた!ラッキー♪では終わらなくて、なぜこのタイミングで食べ物が現れたんだろう?これには何か理由があるのではないか?
というように。
さらに当たり前ですが、火が貴重な時代もありました。
今みたいに何かしらどこかで電灯がついているような光景に慣れると「一体どこからが夜なんだろう?」と思う時があります。
だけど、田舎の山奥やカンボジアの外れとか行くと、ほんっと暗くて怖いんですよ。
何か出てくるんじゃないか、というか、なんというんでしょうね、人間じゃないものがその中に潜んでいるんじゃないかというような恐怖というか。
まぁ得たいの知れない恐怖でしょうか。
そして、人はなんかしら命を食べている。
そのことに対して、それを正当化できる物語が必要だった。
そうして創られたのが神話なのだと、私は今のところ感じています。
日本人からしたら、自然を支配せよ!って教育は受けていないので、自然と疎遠になってもそれを支配しようと思う人は少ないのではないかな、と思っています。
自然に支配されているとも、自然を支配しようとも思わない。
というかここまで書いて思ったけど、日本はほんとうに自然災害の多い国で、今年は特に異常気象のせいか各地で被害が出ているわけで、更に言うとしょっちゅう地震がきたりしていますが「あ~震度3か・・・ちょい揺れたなぁ」くらいに私は思ってるし、家族もや周りもそんな感じなんですが、これって他国じゃすごい恐怖なんですよね。
自然を支配せよという宗教があるから。
人間が支配するのだ!という考えがあるから。
日本って、本当にそういう考えがないんだなぁって書いてて思いました。
自然災害は起きるものだというのが前提にあって、自然災害を失くすことはできないけれど、自然災害が起きたときの対策を万全にしようという意識になっている。
私は神話とか全く興味がないので、こういう神話がありますよ!って風に話を広げることが出来ないのですが、本書は人間と自然は一体であるということを書いています。それは神話が教えてくれると。
神話が教えてくれることはお金の稼ぎかたとか、強くなるにはとか、こういうことすると罰が当たるよとかではなく、思いやりだったり、自然と人間が一体であったり、永遠はすでにある、とかそういうことだと書かれています。
隠喩的に聞く
神話は、もしかすると自分が完全な人間になれるかもしれない、という可能性を人に気づかせるんです。
自分は完全で、十分に強く、太陽の光を世界にもたらす力を持っているのかも知れない。怪物を退治することは、暗闇のものを倒すことです。神話はあなたの心の奥のどこかであなたをとらえるのです。
大体、全部が隠喩だと書かれていました。
小説もありのままは書かれていませんよね。あ、これはメタファーとしての言葉なんだろうな、きっとこういうことを指しているんだろうな、ということがほとんどです。
この隠喩を知る、知らないで読書の楽しさって多いに変わってくると思うんですよね。
これは本当に実感しているのですが、知らなかったときってほんっと読書が楽しくなかったんですよ。
「は?」っていうのばかりで。
だから漫画やアニメやドラマにいっちゃう。
漫画やアニメやドラマって一応子供でも足がつく位の水深にはなっているから、深く潜らなくても楽しめちゃう。
そこから深く探求するかは個人の自由なんですが、とっかかりが易しいので介入しやすい。
だけど小説って、全く知らない作者の世界観に足を踏み入れるもんだから、うっかりしたら溺れちゃうかもしれないし、底なし沼かもしれないから、へたすると水面を手で撫でるみたいに、さらーっと文字をなぞることしか出来ない。
そうすると普通につまんないですよね。笑
いつから隠喩に気付き出したかというと、人のブログです。
「私はこう思う」「これってこういう意味だと思う」っていう書評ブログを見て「すごい!こんなことが読書から分かるの?この人と同じ本を読んでいる筈なのに見えた世界が全然違う!!!」と驚愕したものです。
最近思うのは、この隠喩に気付いていない(使っていない)作家はいない(おそらく)ということです。つまり何かしら思うところがあって書いていて、しかもその表現は具体的に書くと教訓なりメッセージになってしまい詩にならない。
人から価値観を押し付けられることほど不快なことはありません。
ですが、作品というのは作者の価値観があってこそ生まれるものです。そこに意志なりなんなりがあるわけじゃないですか。
だから、それは隠さなければいけないのだと何となく思いました。
隠さなければ、作者の思いや価値観がダダ漏れで相手に押し付けることになる。そんなものは誰も気持ち良くない、何にもならない。
だからこそ芸術は詩的でならなければならない。
いや、もうほんとこの本すごい。
誰でも世界を変えられる
人々は、物事を動かしたり、制度を変えたり、指導者を選んだり、そういうことで世界を救えると考えている。
ノー、違うんです!
生きた世界ならば、どんな世界でもまっとうな世界です。
必要なのは世界に生命をもたらすこと、そのためのただひとつの道は、自分自身にとっての生命のありかを見つけ、自分がいきいきと生きることです。
世の中には自己啓発や他人とどうやって上手くやっていくかとかそういう本がたくさんありますが、本書は常に対自分です。
何一つ他人軸で見ない。
何をするにも、どんな結果も、自分が選んだことなのだと。
そして、自分の至福を探すといいと書かれています。
永遠はすでにある。
私たちの今、生きている一瞬が永遠の一欠片であり、私たちは永遠の中を生きているのだと。
地獄も天国もありはしない。
愛の苦しみを地獄に思う人もいれば、苦しみを受けても愛が欲しい人にとってみれば地獄で笑っていられる。
なんでも自分の意識次第なのだと、本書は教えてくれます。
他人の目を気にせずに好きなことをしよう、やりたいことをしよう、って難しい。分かっているけど・・・出来ない。
そう思っていたことが、すごく小さく見えてきました。
いや、もとから小さいことは分かっていたのですが、「分かってるけど」から踏み出せなかった。
私はなんでも人より遅くてノロノロ、時間もかかる。
だから何かを成し遂げるとか、成功するとか、そういう華やかなことは若い内には経験出来ないと思う。
だけど、いきいきと生きることなら出来るかもしれない。
いや、出来ているかもしれない。
それは職業でもないし、キラキラしている訳でもないし、むしろ苦しみやなんで出来ないんだー!!って方が多いけど、好奇心と探究心を持った亀みたいなヤツなので、辛いことはあっても諦めることはしない気がする。たぶん。
苦痛や苦悩のなかでの真実の祈りは、かならずや創造と愛のエネルギーに転化する。