小学校のときに買ってもらった(と思う)ラスカルの扇風機。
部屋の扇風機として近くのホームセンターで買ってもらいました。
中学生は平日はもちろん土日も夏休みや冬休みも部活だったので、ほとんど使うこともなく、高校生になるとさらに遊びまわったりクーラーで事を済ませ、ほとんど押入れに入っていたと思います。
そして大人になり、一人暮らしをするようになり、押入れの奥底からますます出ることのなくなったラスカル。
12,3年ぶりくらいに最近使い始めました。
新しいの買えば?
最近の私はやたらめったら掃除をしています。
今まで大体年末にやる!と後回しにして、掃除なんてことはパパーっと適当にすましていたのですが、なぜか三か月ほど前から、今週末はベランダ、来週末は洗濯機、その次は・・・と一箇所ずつ念入りに掃除をしています。
色んなものを捨てたり、必要なもの、不必要なものを分けている最中で、なぜかラスカルの扇風機が頭をよぎりました。
実家に帰ったときに、ラスカルの扇風機を見つけ埃の掃除などをしていると、父が「新しいの買えば?」と、そんな古いのを引っ張り出してまだ使うんかい・・・といったような顔で話しかけてきました。
確かに、このラスカルは小さいし、今はもっと機能も大きさもあるものが安く買えると思うのですが、このラスカルの扇風機じゃなければ扇風機はいらなかったのです。
私を認めてもらったもの。
なぜかというと、このラスカルの扇風機は"私を認めてもらった"という感情を宿しているからなのです。
当時、扇風機を買いにいったとき、このラスカルの扇風機は安くはありませんでした。なんでもそうですが、キャラクターものというのは、機能性が低く、サイズが小さくても高いものです。
両親はどちらかというと、デザインよりも機能性なり値段を重視する傾向があり、幼かった当時はキャラクター物をねだっても「そんなの今だけでしょ、飽きたらどうするの、ずっと使うものなのよ」といって、シンプルなものなり、無難な服なり、お弁当箱なり、靴なりしか買ってもらえませんでした。
だけど私はどーしてもこのラスカルの扇風機が欲しかったのです。
とくにあらいぐまラスカルが好きだったわけではないのですが、一目ぼれしちゃったんですね。
今でもすごく気に入っていますが、少しレトロでピンクでも赤でもないラズベリー色の中にぽつんといるラスカル。
むしろ、普通の扇風機なら要りませんでした。
両親は絶対反対するだろうな、と思っていました。
だけど、そのとき「あんたがそんなにそれが欲しいならそれにしたら?」と言われたのです。
このとき私は、機能性や値段っていう目に見えるものより、私の直感なり感性なりそういうもの価値の方が重視されたということがすごくうれしかったのです。
人が人を認めるってことは、目に見えないその人の感性を「なんか分かんないけどいいんじゃない」と思うことなんじゃないかなと思うのです。
私だってなんでこんなにこのラスカルに惚れてしまったのか分からないのですが、なんだかすごく可愛くて、大事にしたいと思ったのです。
私が大事にしたいものを大事に出来る権利を貰った・・・といいますか。
子供というのは、大事にしたいものを当たり前に大事に出来るわけではありません。大事にしたくても与えられなければ愛することはできない。
何十年ぶりかに見たけれど、すごく綺麗に取ってありました。
さすが私だな、とそのとき思いました。
大事だったから、汚れないように、傷つけないように、ラスカルが禿げないように・・・大切にしていました。
大切にしたいもの
なぜだか分からないけれど、自分にとってすごく胸を打つ音楽だったり、風景だったり、デザインだったりって誰にでもあると思います。
だけどそれって大人になるにつれて、比較対象が出てくるし、お金事情なり、機能問題なりを理解出来るようになるから、純粋に欲しい!っていう気持ちより、「でもこっちの方が安いな」とか「でもこっちの方が機能ついてるな」と比較してしまって、なんだか自分で選んでいるようで、ほんとうは選ばされているんだろうな、と思うのです。
生きてる限り、機能もお金も大切だから何でもかんでも直感で選んでたんじゃ破綻してしまうんですが、たまにはそういう、なんか分からないけどすごく好きだ・・・って思えるものを手元に置くのも大事なことなんじゃないかな、って最近思いました。
今、色んなことが自分の中で変化している気がしていて。
掃除はもちろんですが、心の変化とか、物事の捉え方とか、感じ方や考え方が大きく変わっている気がしています。
それはわくわくすることでもあるんですが、少し不安もあります。
だけど、そういうときにラスカルの扇風機が買ったときを同じように風を送り続けているのを見ると、状況や環境や、私の感じ方が変わっても、私の感性は何も変わっていないのだとホッとします。
「なんでこんなの買っちゃったんだろう?」っていうものじゃなくて、何十年経っても「やっぱりこれすっごい好きだわ」って思える物があるのは、変わらないモノがあるのだと証明してくれているようで、とてもうれしいことだな、と思いました。
感性や感情って形はないけれど、物にはそういう形にならないものが宿る。
他人から見たらなんてことない物だって、持ち主にとっては自分の何かしらが宿った大切なものなのかもしれない。
自分だけのガラクタなりジャンク品ってありますよね。
まだラスカルは元気に働いてくれていますが、もし壊れて物としての価値が消えても、そこに宿る私の幼いころの喜びがある限り存在する理由があるのだと思います。
物にもレーゾンデートル。