≪内容≫
ある朝、気がかりな夢から目をさますと、自分が一匹の巨大な虫に変わっているのを発見する男グレーゴル・ザムザ。なぜ、こんな異常な事態になってしまったのか……。謎は究明されぬまま、ふだんと変わらない、ありふれた日常がすぎていく。事実のみを冷静につたえる、まるでレポートのような文体が読者に与えた衝撃は、様ざまな解釈を呼び起こした。海外文学最高傑作のひとつ。
これは・・・すごく・・・良かったです。
読後に知ったけど、訳が高橋義孝さんだった。
高橋さん訳のファウストを読んでいて、すごく読みやすかったから嬉しい。
私は海外文学が苦手(読みづらく感じる)なのですが、これはすっごく読みやすかった。原文が読みやすいのか、訳者の手腕なのか、両方なのか、私には分かりませんが、とりあえず「変身」は深い。
虫は虫じゃない
ある朝、グレーゴル・ザムザが何か気がかりな夢から目をさますと、自分が寝床の中で一匹の巨大な虫に変っているのを発見した。
有名な冒頭文かつ、本書の簡単な説明はこの一文で済むという、「これが小説の才能というものか・・・」と思ってしまう一文。
まぁ虫になっちゃんです、グレーゴル君。
だけど、この虫はメタファーとしての虫なので、虫は虫なんだけど虫じゃない、という見解になっています、私の中では。
本物の虫として読んで行くと、虫になって仕事も出来なくなり、気持ち悪い存在になったから家族に嫌われた、という感じになりますが、この"虫"の意味を自分がどう捉えるかで、自分だけの「変身」という物語が出来あがっていくと思います。
前々から思っていたことですが、星の数ほどある小説の中で、空白がなかったり、作者の主張が強すぎ(丸見え)だったり、正解が用意されている小説に対して、私はイマイチな印象を拭えませんでした。
キツイことを言うとだってそんなの洗脳じゃん、っていう思いがあります。
強い言葉で「こうだぜ!こうなんだぜ!」と訴えてくる言葉は苦しいし、読み手の思考を奪うことに繋がっていると思います。
もしくは、読み手に対して「お前は想像力がないから、私が説明してやろう」みたいな上から目線を感じます。
私の勝手な希望ですが、与える人というのはそれが強制になってはいけないと思っています。例えば「代わりにやってあげる」とか。出来る人間が(時には助けてあげているという親切心ゆえに)まだ出来ないでいる人間に対して、する機会を奪うというのはご法度だと思っています。
想像力がない、読解力がない、語彙力がない。
例え今、上記の能力が限りなく0に近いとしても、それを培う権利は誰にでもあるはずです。
それを培うのはすごくすごく骨がいるのに、奪われるのは一瞬です。
私のようなマイペースでトロトロしている人間からしたら、皆が早く先に行くのは勝手だけど、途中で戻ってきて「ほら!こうやるんだよ!こう考えるんだよ!」と助言しにくるのは迷惑以外の何ものでもない。
本当に親切な人間は、困っている人が手を伸ばしたときに掴んでくれる人であって、自分が親切にしたいときに気まぐれに世話を焼く人のことではない。
そういう私の読書癖の中でこの「変身」は恐らく最高の位置にいます。
カフカは初なので、他の「城」なども読んでみたい。
誰かの想像力の土台になるような小説を書くというのは、とてもすごいことだと思う。カフカが「扉絵に虫は書かないでほしい」と言ったエピソードがそれをあらわしていると思います。
家族の中で自分だけが異質という孤独
私が今回感じた虫はこれです。
グレーゴルは家族のために働いていました。
事業に失敗して借金を背負った両親は自信喪失で働かない。
妹はヴァイオリンが好きで、出来れば音楽学校に行かせてやりたい。
借金を返すために、外交員になったグレーゴルは嫌々仕事をしていました。
ほかの社員が、テキトーに仕事をしている中グレーゴルだけが必死に働いている。自分がそんなことをしたらこてんぱにやられてしまうし、病欠にしたって怠慢だと親に言いつけられてしまう。
会社内格差を感じつつも、家族のために働いていました。
ですがね、実際グレーゴルがいない方が三人は生き生きしてくるんですよ。
すごい悲しいけどすごい真理だと思う。
グレーゴルが虫になって、部屋に閉じ込められてから生活のために三人はそれぞれに出来ることを見つけてしゃかりきに働き出す。
そして、グレーゴルが息絶えたあとは「人生これからでしょ!」ばりに前へ進んで行くんです。
家族構成は父、母、グレーゴル、妹です。
家族のためにたった一人でやりたくもない仕事をしていたグレーゴルですが、グレーゴルがいなくなったって家族は死なないし、むしろそれぞれが社会復帰に繋がった。
グレーゴルは働いているときは、仕事に時間を取られ家族と触れ合う時間がなかった。虫になったら閉じ込められ、忌み嫌われ、父に殺されそうになった。
家族といるためには、グレーゴルは家族のために働くグレーゴルであるしかなくて、変身してしまったグレーゴルは家族扱いはおろか人間扱いされない。生きていることさえ認められないのであった。
タイトル/変身
「虫」というタイトルだって良かったはずだと思う。
もしも、グレーゴルがほんとうに「虫」になったのなら。
カフカがグレーゴルを「虫」にしたのは、家族の意にそぐわない息子は虫ケラ同然だという意識からではないのかな、と思います。
ある男と女の間で命は生まれる。
その生まれた人間がどんな意思を持つかなんて親にだって分からない。
子供は親に愛情を求める、親は子供に「俺の子なんだから」「私の子なのよ」と共通点を見つけたがる。
小さな子供は自分自身が親に似ているかなんてことは考えない。だけど、親は共通点が見つからなければ疑念を抱き、強制するようになる。
そして、「俺の子」という人間が形成されていく。
グレーゴルの両親にとって「俺の子」という人間だけが、自分たちと同じ人間のグレーゴルなのであって、その枠から飛び出し、違う人生を歩みたいという意思を持つ人間は巨大で気持ち悪い虫なのであった。
家族のためと思いながら、グレーゴルはもっと自由に自分のやりたいことをしたいと、自分の人生を歩みたいと思っていた。
それが変身であり、家族との戦いなのだと思う。
本書が素晴らしいなと思うのは、父や母や妹がどんな人間かというのはほとんど書かれておらず、始終グレーゴル視点で語られていることです。
だから、父や母や妹がグレーゴルに対してどんな気持ちを抱いていたのかは想像するしかなく、グレーゴルの被害妄想の可能性だってあるわけです。
だからこそ読者は自分なりの経験や記憶に照らし合わせて、グレーゴルの家族を創ることが出来る。
グレーゴルは変身しても、家族の枠から出られませんでした。
家族というのは、家人を守る城塞でもあり、家人を幽閉する場所にもなります。
大きな虫になり、仕事もしなくてよくなり(出来なくなった)、グレーゴルは自由を得たはずでした。
だけど、虫になった彼に待っていたのは、部屋で一生を終えるというエンディングなのです。
外に出て、奇異の目で見られ捕らえられるかもしれない。
その恐怖は想像に難しくない。
だけど、どうせ死ぬなら一歩外の世界へ飛び出してしまえば良かったのに、と思う気持ちと、やってみたくても変わりたくてもどうしてもその一歩が踏み出せないもどかしい気持ちが胸をよぎります。
その作品中、ことに有名な、この『変身』の「巨大な褐色の虫」は何の象徴であろうか。答えは無数にあるようだ。そしてどの答えも答えらしくは見えぬ。けだし文学とは、それ自身がすでに答えなのであるから。
/あとがき 高橋義孝
親という立場になって本書を読んだとき、また感想が変わるのかも知れないな、と思う作品です。