深夜図書

書評と映画評が主な雑記ブログ。不定期に23:30更新しています。独断と偏見、ネタバレ必至ですので、お気をつけ下さいまし。なお、ブログ内の人物名は敬称略となっております。

旧約聖書を知っていますか/阿刀田高~どんなことでも知っている人は知っている~

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≪内容≫

「旧約聖書」を読んだことがありますか? 天地創造を扱う創世記あたりはともかく、面倒なレビ記、申命記付近で挫折という方に福音です! 預言書を競馬になぞらえ、ヨブ記をミュージカルに仕立て、全体の構成をするめにたとえ――あらゆる意味での西欧の原点「旧約聖書」の世界を、松葉末節は切り捨て、エッセンスのみを抽出して解説した、阿刀田式古典ダイジェストの決定版。

 

アイヤー、ヨッ

で覚える旧約聖書。

ア・・・アブラハム

イ・・・イサク

ヤ・・・ヤコブ

ヨ・・・ヨセフ

の頭文字をとって「アイヤー、ヨッ」です。

 

冒頭でこの紹介分出てきたとき、「アイヤーヨッ自体まず覚えられるかな?」と半信半疑だったのですが、読み終わって暫くたっても覚えてます。

アブラハムやイサクたちのことも。

 

ここまで噛み砕かれているとすっごく読みやすいです。

これは興味がない人が読んでも一つの物語として面白いと思います。

めちゃめちゃオススメです。

 

イスラエルの神とは

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イスラム教に限らず、宗教関連の争いってあるじゃないですか。

日本人の感覚からしたら、逆にそんな殺戮を犯して神様に怒られないの?みたいな疑問が芽生えると思うんですよ。

信じる者しか救わない神なら、ご先祖様はどーなんねん!みたいな・・・。

 

だけどイスラムの神様はこういう神様のようです。

 

イスラエルの神にとっては、常識的な善悪も大切だが、それ以上に、その男が神を敬っているかどうか、その男が神の祝福を受けたものであるかどうか、それが第一義である。

あえて簡単に、はっきりと言えば、神が愛している人間であれば、神を裏切ること以外はなにをやっても、まあ、おおめに見てもらえる。

 

 えこひいきなんですよね。

 

だからどれだけ神を慕ってもひいきされなければ恩恵は受けられないわけです。

逆に恩恵を受けたものは悪い行いをしても厚生のチャンスが巡ってくる。

 

これって人間世界と一緒じゃないですか。

神だけは人間を平等に見てくれるっていうのは、違くって、神がこういうえこひいきな世界を創ったとも言えるんじゃないかなーとか思ってきたりする。

 

まぁこれはイスラエルの神様の話であって、日本の神話はほとんど知らないので、全ての神がどうのうっていうのは分かりませんが、なんだか「神のくせにえこひいきしやがって!イスラエルの神なんか信じるか!」とは思いませんでした。

 

なんか、「そっか。」みたいな。

そうだよなーと自然に納得。

 

 宗教の教えの一つに世の中えこひいきが普通ですよ、人間は全然平等なんかじゃないですよっていうのがあるなら興味が芽生える。

 

私の中で宗教ってもっときれいごとばかりだと思っていたんです。

だけど、こんな人間臭いことが書かれていると一気に親近感がわく。

まぁ神相手に親近感とか言ったら怒られちゃうと思いますが・・・。

 

ジャンセニスムとヨブ

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教義の説明はどの道むつかしいものではあるけれど、あえて大胆に、簡単に紹介すれば、この教義では・・・神がすべてをなす、人間にはなにもできない。神の御恵みがだれにくだるか、これは神の考えにより決まっているのである。

私たちが救われるか、地獄に堕ちるか、それは生まれる前から決まっていることなのだ。いっさいの宿命が神から出ており、そこに賞罰応報主義はない。

くり返して言うが、はじめから決まっているのである。

祈っても意味がない。そうであるにもかかわらず、私たちは神の御恵みを求めて神を敬い、祈らなければいけない。 

 

 これがジャンセニスムという教義とのこと。

 

そしてヨブとはヨブ記に登場する心正しく、神をおそれ、神を敬う清い男のことで、神は「まことにういやつ」とヨブに感心していました。

しかし、そのように正しくいれるのは神の恵みがあるからこそで、一族を滅ぼし財産を奪えば、ヨブだって神を呪うだろうとサタンは言います。

 

そこで神はヨブの一族を滅ぼし財産を奪い、サタンが言ったことが本当かどうか試してみることにしました。

 

ヨブは嘆き、悲しみに打ちひしがれても神を敬うことをやめませんでした。

神が「どうじゃ」とサタンに言うと、サタンは「ゆうても一族の滅亡も自分のことじゃないし、財産だって考えようによってどうにもなりまさあ。ここはいっちょヨブ自身の骨と肉を痛めてみましょう、今度こそ神を呪うはず」などと挑発します。

 

ヨブは汚くて臭くて痛くて痒いという命にはそこまで影響はないが、十分に辛い病気にかかります。

 

ヨブにしちゃあどんなときも神を敬ってきたわけで、何にも神に背くことはしていないのに、これほどの災難が襲いかかることが信じられませんでした。

「神よ答えてください!」と投げかけると、ヨブの友人はこう言いました。

 

神は全能であり、人間などが及びもつかないほど賢く、思慮が深い。目先の現象だけ見れば、たしかに積善の人ヨブがむごいめにあうのは、理不尽のように思えるけれども、それももう一つ高い次元に立って眺めれば、意味のあることであり、理に適ったことなのだ。

それを知らずに人間が神と対等に賢いものと考えてしまう、その高ぶりこそ、害となるものである・・・と。 

 

ヨブ記に書かれていることはジャンセニスムと似ています。

 

よく「信じる者は救われる」という看板なり文字を見ることがありますが、このように「信じようが信じまいが全ては初めから決まっているのである」という思想もあることを初めて知りました。

 

信じるから救ってね、みたいな見返りを求めず、ただ神を敬うこと自体に喜びを感じることが大切なのだと。

 

正直、見返りを求めず祈ること自体が自分に何かをもたらすのだと信じて行う祈りは「祈り」という言葉に違わないと思うので理解出来ます。

だけど、「初めから決まっている」ならば、祈りはどこにも届かないということになりますよね。

「全ては神が決める」ことは受け入れられても、熱心な祈りが決められた事柄を動かすかもしれない、と思うから祈るんじゃないんでしょうか?

 

それは見返りではなくて、「祈り」であり「願い」であり「希望」ではないのでしょうか・・・。

 

悲しすぎる。

 

知識多ければ悩み多し

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聖書の知識なくして、西洋の文化は理解できない、と。

聖書は宗教の書であるが、同時に、西洋の文学や美術、音楽、思想を生み出す最大の原動力である。

しかし、この西洋文化の基礎はなかなか難解である。

ひとりの力で踏破するには相当の体力が必要だ。

 

解説より。

 

知れば知るほど「は?」と思うことも増える。

どーいうこと!?っていうのも増える。

 

だけど、私は引用文と全く同じ考えで、西洋の作品を知るのに聖書は一番の近道なのだと思う。

 

イチローの言っていた「遠回りが一番の近道」 はここにも当てはまると思います。

 

今の日本には海外作品を目にする機会が多くありますよね。

映画なり小説なり、美術展なり。

やっぱり知らないと知らないんですよ。

知らなくても分からないことに気付かないことはある。

だけど知るとまず分からないことに気付く。

 

例えば、私が最近読んだ海外ミステリーは「その女、アレックス」と「ボーン・コレクター」なのですが、二作とも「ネズミ」が出てきます。

「その女アレックス」の記事を読む。

 「ボーン・コレクター」の記事を読む。

日本のミステリーで、被害者が倉庫かなんかに監禁されて、その場所にネズミが出現して被害者にたかるって私は見たことも読んだこともないんですね。

 

だけど、この二作はどっちとも被害者VSネズミのシーンがあるんです。

これはなぜか?

海外ではペストが流行っていました。

「ペスト」の記事を読む。

この小説はペストの話ですけど、まぁほんと怖い伝染病だったわけです。

このペストはまずネズミが感染し、そのネズミが媒体となり人間に感染し、人間はほぼ死にます。

なので、海外の人はネズミに対しての恐怖心がDNAに刻みこまれている・・・らしいのです。

 

簡単な例ですが、こういう知識(前情報)があれば「なんかネズミにたかられるシーンおおいなぁ」と気付くことがまず出来ます。

 

そこから「なんか日本人のネズミに対する意識と海外のネズミに対する意識って違くない?」とか思って調べ始めたりします。

 

しかも周りにこんなこと言っても「へえー」くらいしか聞いてくれない。

寂しい・・・、大発見レベルで興奮したのに!ということが多々あるので、気付けば悩みも増える・・・かもしれません。笑

 

でも、何にも知らないで世界で起きてることに対して「OOはひどい国だ!」とか「OO教ってやばくない?」みたいなことは思いたくないのです。

 

判断は知った上でしか行われなくて、何も知らないままでは決め付けにしかなりません。そういった決めつけるような人間にはなりたくないし、知らないからってなにも言わないような人間にもなりたくない・・・と思ったら知るしかないのですね。

 

西洋の文化だけじゃなくて、日本の文学に対しても「こういうことだったのか」と思うことがありました。

それは「土の中の子供」という作品のことで。

「土の中の子供」の記事を読む。

書評も拙いですし、書いた当時全く意味が分からない感じでした。

「土の中の子供」の主人公は虐待の果てに、土の中に埋められ、そこから這い上がり、虐待していた両親(だったか不明)と別れ施設に入ることになります。

主人公が私は土の中から生まれた・・・的なことを確か言うんですが、「土ってなんやねん」とか思っていたんです、私。

いや、土に埋められたから土の中から生まれたんだろうけど、土ってなんやねんみたいな。

だけど本書の「第8話、アダムと助骨」の

 

土の塵からアダムが創られ、鼻に息を吹き込まれて、ここに最初の人間が誕生する 。

 

という一文を読んだとき、「ああ、これか!!!」と思ったのです。

 

こういうの知らないとピンと来ないわけです・・・。日本文学でも・・・。

中村さんは確か旧約聖書を読んでいたはずなので、 たぶん「土の中の子供」という作品の中で主人公が「私は土の中から生まれた」と言ったのは、虐待してきた両親(だったか不明)から生まれた私は土に埋められて死に、土の中で意識を取り戻した私はアダムのように土から生まれたのだと、アダムのように大きな力の元に生まれたのであり、記憶にある両親から生まれたのではないのだということを言いたかったんじゃないか・・・と今更ながら思ったのでした。

 

約半年前に読んだ本の解読に繋がりました。

気になるのでもう一度「土の中の子供」読んでみたいと思います。

 

そしてもっと宗教知って行きたいなーと思います。

聖書と旧約聖書。

禅も知りたいし。

 

この本は何の知識もない私でもすらすら読めて、覚えやすくてすっごくおすすめです。

次はこの人の「ギリシア神話を知っていますか」を読む予定です!