≪内容≫
1995年3月20日の朝、東京の地下でほんとうに何が起こったのか。同年1月の阪神大震災につづいて日本中を震撼させたオウム真理教団による地下鉄サリン事件。この事件を境に日本人はどこへ行こうとしているのか、62人の関係者にインタビューを重ね、村上春樹が真相に迫るノンフィクション書き下ろし。
地下鉄サリン事件の記憶ってありますか?
幼かった私は幼いからこそ怖かったんだと思います。
頼るべき、守ってくれるはずの大人や警察が自分の味方ではないという恐怖。
今だから言語化出来てますが、当時は計り知れない怖さ、得体の知れない恐怖だったんでしょうね・・・。今でもあの白い暴れる人と警察の映像がしっかり焼き付いています。
1995年と今
本書は地下鉄サリン事件に遭遇した人のインタビューをまとめたものです。
サリンが置かれた車両に乗り合わせた人、サリンが置かれた駅のホームにいた駅員や売店の方、事件が起きた駅の通りを歩いていた人など、とにかく当時何らかの形で関わった方の声が集められています。
その中でびっくりしたのは、何か体調がおかしいな?と思っても這ってでも仕事場に行こうとしている人の多さ。
サリンによる不快さを感じながらも席から動こうとしない人の多さ。
だけど、結果として大事だと分かった今だからそんなことより、と思えるのであって、当時の訳が分からない状況なら、まずは会社に連絡しなくては、とりあえず出社しなくては、というのはおかしくはないと思ってしまう。
それに座席に座ったまま動かなかったために重症を負ってしまった方や、車両を移動しなかった方がいたことも、通勤が電車である自分としては分かる部分もあります。
私はサリンが巻かれた地下鉄は使いませんが、首都圏の非常に混雑した電車に遭遇することは多々あります。
そういった時、座れるか座れないかというのはかなり大きな差なのですよね。
乗っている人はよく分かると思うんですが、座ってても前の人の荷物や足がガツガツ当たるような状況ですからね。立っている状態は正常ではありません。
筋肉痛が満員電車によるものである人も多いと思います。
そんな日常の中だと座席というのはかなり貴重なんですよね。
しかも地下鉄の特徴として階段がありますから、避難するにしても大混雑だったことは想像するのは難しくないです。
普通に並ぶ、並ぶのが普通、というのが地下鉄の通勤時間の状況ですね。
今ならばこのような事件が起きても、この地下鉄サリン事件という前例があるからこそ、それなりにたくさんの人が事態を把握できるかもしれません。
何が起こったのかも分からない中で、懸命に電車を動かそうとした駅員さんたち。彼らの話はほんとうに胸を打ちます。
オウムみたいな人間たちが出てこざるを得なかった社会風土というものを、私は既に知っていたんです。日々の勤務でお客様と接しているうちに、それくらいは自然にわかります。
それはモラルの問題です。
駅にいると、人間の負の面、マイナスの面がほんとうに良く見えるんです。たとえば私たちがちりとりとほうきを持って駅の掃除をしていると、今掃き終えたところにひょいとタバコやごみを捨てる人がいるんです。自分に与えられた責任を果たすことより、他人の悪いところを見て自己主張する人が多すぎます。
昨今多いなぁと思うのは、人身事故です。
飛び込みですね。
人身事故はとても長い時間運転停止になります。もちろん乗客は会社なり自分の用事に間に合わなくなります。電車も混みます。苛立ちが増えます。
私はそういうときに、yahoo路線情報のtwitterのつぶやきを見るのですが、人が一人死んだことより、予定に間に合わないことや会社に遅れてしまうこと、死ぬ方法としての飛び込みを迷惑だと非難する人たちが大半を占めています。
もちろんSNSの言葉だけが全てではありませんし、飛び込みを良しとするわけでは全くありません。
だけど、一人の人間がその朝に死を選んだということ、そしてその人が死んだ現場に立ち会い、一所懸命に動いている駅員さんや消防の方たちがいるんだと思うと、私はすごく胸が苦しくなります。
この間、人身事故が起きた朝はものすごく気持ちの良い朝で、太陽が燦々と輝き、空は青く、雲はほとんどない、「今日も一日頑張るぞ!」って思えるような、前向きになるような朝だったのです。
そんな朝に命を絶つことを決めた名前も知らない誰か。
こんなに明るく溌剌とした太陽でさえ、その人の心を照らせなかったのかと、暖められなかったのかと思ったし、本人が光も見えないくらいの闇にいたのかもしれないとも思いました。
私も電車というのは人間の負の面、マイナスの面がほんとうに良く見える気がします。絶対に遅刻出来ない会議、遅延を認めない講義、どんな理由であろうと認められない遅れ。
死んだら全部消えてしまうもの。
生きているから大切なもの。
そういうものが、誰にもありますね。
「目じるしのない悪夢」より
「システム(高度管理社会)は、適合しない人間は苦痛を感じるように改造する。システムに適合しないことは『病気』であり、適合させることは『治療』になる。こうして個人は、自律的に目標を達成できるパワープロセスを破壊され、システムが押しつける他律的パワープロセスに組み込まれた。自律的パワープロセスを求めることは、『病気』とみなされるのだ」
「目じるしのない悪夢」は村上氏の本書への取り組み、またこの事件への憶測が書かれている。
現代でも宗教の勧誘はあるが、オウムが流行ったのは時代の波というものもあったようですね。今でもyoutubeでかなり出てきます。普通にテレビに出てたりするからびっくりです。今なら絶対放送されていないだろうなっていう、謎の歌とともに踊る映像とか・・・。何よりびっくりしたのは、信者がみんな真っ白い服を着て共同生活している映像でしたが・・・。
正直なところ、オウムに関して後追いしたところで分かることはかなり少ないと思う。当時流行っていた(らしい)終末思想だとかオカルトだとか、バブルとか、そういったものを肌で感じていない世代が後からなぜオウムが流行ったかというのを理屈を超えて感じることはほぼ不可能と思う。
それは、戦争時代に生きていない人間が戦争を知らないのと同じように、学生運動が盛んだった時代を知らない人間が首をかしげるのと同じように、分からないものは分からないのだと思う。
バブルで日本中が浮かれまくっていた最中に果たしてこれでいいのだろうか・・・と思う人間たちがいた・・・と言われてもSFやファンタジーなどの物語としてならふんふんと受けれられても実際に起きたこととして受け止めるのはかなり難しい。
私はいわゆるゆとり世代であり、世間で「バブルを知らない子供は可哀想」だとか言われても物心つくころには崩壊していのだから、バブルなんかないも同然である。
一番悲惨なのはバブルを知った直後に崩壊した世代なのでは?と思ったりする。
知らないというのは無いも同然なのだから、他人がどれだけ可哀相がっても本人は全く他人事なのです・・・。
なので、自分たちが知らない世代に起きた出来事を知るというのは後天的に自ずと調べていかなくてはいけない。
例えそれが受け止められないことだとして、他人事にしか思えないとしても、そこから学ぶ何かがあるはずだから。
この本と「約束された場所で」を読んだあと、ネットで何でオウムが流行ったのかってめちゃくちゃ調べたけど、納得できる答えは見つかりませんでした。
「約束された場所で―underground 2」の記事を読む。
その当時信仰宗教が流行っていたから、とか、バブルという光が強すぎて影も濃くなったから、とか、ノストラダムスの大予言もあり終末思想が流行っていたから、というような内容がほとんどで、正直良く分かりませんでした。
でもたとえば、今から三十年後くらいに生まれてくる人が、今の日本で自殺者が後を絶たないことや満員電車で痴漢が増えて冤罪も増えたことやいじめのことや、そういったことを、昔はなんでこういうことがあったの?と聞いてきたとして、私はその原因を言えるかな?と思うと言えないのです。
なんかこういうのは明確な理由があって起こるものではなくて、長年蓄積されたものが時代ごとに形を変えて表面化したようなものである気がするのです。
だからたぶん、今の問題と過去の問題は別問題のようで繋がっていると思うのです。
駅員の人たち、乗客の人たちの協力、対応力はほんとうにすごいと思う。普通に走ってる車を止めて病人を乗せて病院に行ってくれって言った人たち。それに応じた運転手たち。現場に残って重症の人たちの介護をして後から病院に向かった人たち。いち早く状況を察して各病院にFAXを送った長野の病院の人たち。搬送された病院の先生たちも原因や対処が分からないながら、患者と一緒に出来ることをやろうと前向きに治療していった姿。
自分の異変を後回しにして乗客避難に尽力を尽くした駅員の方々・・・。
この本から、この事件から学ぶことがたくさんあると思いました。