≪内容≫
舞台は近未来の島国・R帝国。ある日、矢崎はR帝国が隣国と戦争を始めたことを知る。
だが、何かがおかしい。国家を支配する絶対的な存在″党″と、謎の組織「L」。やがて世界は、思わぬ方向へと暴走していく――。世界の真実を炙り出す驚愕の物語。『教団X』の衝撃、再び! 全体主義の恐怖を描いた傑作。
ちょっと前に「ラストレシピ~麒麟の舌~」を観ました。
内容を少し書きます。(一字一句正確に覚えているわけではないので、間違いがあるかもしれません。ご了承願います。)
「大日本帝国食菜全席」を作成するために山形直太朗は妻と助手の鎌田くんと一緒に満州に渡ります。
満州で中国人の料理人である楊晴明を助手とし四人で仕事を始めます。
四人で行動していく中で、山形はある一言を無邪気に発します。
「五族協和を目指す」と。
満足そうな山形のその一言に妻と鎌田くんもすばらしいという風に笑顔で頷きますが、楊晴明は不満げな顔をします。
どうしたのか尋ねると、彼はこう言いました。
「五族協和というけど、ここは元々は中国人の土地。そこに日本人が来て満州国を作った。元々ここに住んでる人がいるのに。五族協和と言ったって一番上は日本人なんだろう?」と。
日本人の三人はいいことをしていると思っている。
でも楊晴明の言うことはもっともだと思いませんか?
別に五族協和なんて望んでないし、中国人が先に住んでいた土地をどうしようが中国人の勝手なわけじゃないですか。
それなのに日本は自分たちの支配下に置いたわけです。
支配下に置いたくせに、その時点で平等でもなんでもないくせに、どの口が五族協和など言うのか。
そう言ったって階級があるくせに。一番上に日本人が立つくせに。
別に本書を読んだり歴史を勉強していく中で、目の前にある娯楽全てを投げ出したりすることが求められているわけではない気がします。
でも、色んな視点で物事をみること、そのために色んな立場から書かれたもの、作られた作品を探すこと、心のどこかに影を感じることは必要だと思っています。
たとえ、自分自身の家が仕事がうまくいって、家族全員が健康に恵まれて、とてもしあわせだと思っていても、一軒置いた隣の家では血を流すような苦しみを味わっているかもしれない。そういうことにはいっさい目をつぶって問題にしないで、自分のところだけ波風立たなければそれでいい、そんなエゴイストにならなければ、いわゆる"しあわせ"ではあり得ない。
(中略)
ニブイ人間だけが「しあわせ」なんだ。
ぼくは幸福という言葉は大嫌いだ。
(自分の中に毒を持て/岡本太郎)
幸せな人間と幸福に生きることの違い
私はずっと思っていた。国を豊かなまま思い通り支配するために必要なのは、一部のエリートだけを残し、残りの国民達を無数のチンパンジーのようにおろかにすることだと。
(中略)
まず国民の大半を、わかりやすく言えば、簡単に言えば馬鹿にしなければならない。もうずっと以前から、私がこの国の支配層に入る前からその動きは始まっていた。
まず文化全体のレベルを、一見わからないように少しずつ下げていくこと。くだらないものに人々が熱狂するくらい、文化的教養を下げていくこと。本来学歴と教養は関係ないが、たとえ高学歴な人間であったとしても、教養という言葉に虫唾が走るようにすること。馬鹿な者達が上げるネット上の大声に社会が萎縮することで、馬鹿によって社会が変わる構図はもうすでにできあがっていた。
そもそも正体を隠しネット上で差別や悪口を書き込むほどみっともないことはあるまい?だがそういったことを恥ずかしげもなくできる者達が大勢いるのは周知の事実だ。そういった者達が増えれば世界はどんどん愚かになる。
大人にとって言われたことを素直にやる子供は扱いやすく、なんで坊やはめんどくさいみたいな感情が国家と国民に当てはまるように感じました。
国家がシェパードで国民が羊。
例えば本を読んでいても映画を見ていても、娯楽的な本、流行の本は「なんでそれを読んでるの?」なんて聞かれないけど、純文学の本だったり歴史の本だったり、映画でもマイナーなものを観ていたりすると「なんでそんなの選んだの?」とか言われることがある。
肯定してくれる人もいますけど、明確なもの以外は意味が分からないという返答をする人が多いなぁと思います。
ただやりたいだけなのに、それが将来に繋がらないならやる意味が分からないとする感覚。だけど大衆的な娯楽は将来に繋がらないと分かっているがオッケー。
そうして国民は上澄みだけで満足できるくらいのレベルに落ちていく。
漫画や音楽、小説、映画という作品は作る側がものすごく深い部分まで掘り下げて調べて自分のものにして、その中の一欠片を露出したようなものだと私は思っています。
だから読み手はただ文字や絵をなぞるだけでもまあまあ分かる、まあまあ感動できる。しかしそれだけでは満足できずに、もっと深くもぐりこみたいと思う読み手がいたときにどこまでも掘り下げられるようになっている。
掘り下げて自分の何になるのかは他人には見えないし、たぶん本人も感じることはできても「これだよ!」って他人に見せてあげることは出来ない。
だからそれは孤独なのかもしれない。
分かり合えない、分かってもらえない孤独。
それがイヤだから、大衆的な娯楽を追いかけて、本質よりそれを理由に誰かと笑いあったり一緒に行動することを選んでしまっても何もおかしくないように思う。
そもそも正体を隠しネット上で差別や悪口を書き込むほどみっともないことはあるまい?だがそういったことを恥ずかしげもなくできる者達が大勢いるのは周知の事実だ。そういった者達が増えれば世界はどんどん愚かになる。
という部分は今のインターネット社会の風刺だと思うのですが、私はyahooコメントとかすごくいいなあと思ってるんですよね。
ああこういう見方があるのか、こういう意見があるのか、こういう考え方の人もいるんだ、っていうのもあるけど、たまに自分もこういう経験をしたことがあるとか、こういう人に会ったことがあるとか、体験談をコメントしてる人がいて、それもすごく大切だなあと思っていて。
本書を読んでいて「本当にそうだな」って思う部分がたくさんありました。
「しあわせになりたい」って言葉があります。
だけど「しあわせになりたい」って思うことは盲目になること、自分の半径5メートルだけ意識することと同義語なのかもしれません。
私は盲目になる気もないし、自分の半径5メートルだけ意識しようとも思っていません。だけど自分を「しあわせ」な人間だと思っています。
だけど幸福に生きたいとは思っていません。
「しあわせ」を後ろめたく思うのではなく、「しあわせ」だと思える環境にいる人間だからこそ考え続けようと思うのです。
私が「しあわせ」を手放して貧しい人に思いを馳せても何も変わらない。今もっている少ない全財産や服や貴重品を寄付して自分が生きていくのに精一杯になったら、私は私の周りの人を不幸にする。
結局のところ、半径5メートルよりももっと狭い部分で自分以外の人間が何をしあわせとしているかなんて分からないから、自分と他人を曖昧に同化させないでちゃんと線を引いたほうがいいように思うのです。
今のところ。