≪内容≫
女性の裸を描き続けているヌード専門画家のミク。初めて開いた個展で、孤独を纒った美しい青年に出会う。この人が欲しい―彼をひと目見た瞬間、ミクの体内に始まりのサイレンが鳴り響く。ひとりの時間を愛し、絵を描くことで自分の存在する意味を探るミク。何度夜を重ねても心には触れさせてくれない、服飾デザイナーの恋人。腕に刻む小さなタトゥーに恋の願掛けをする、陽気な同性愛者の少年。キャリーバックを引き、繁華街を彷徨っては「神」を待つ家出少女。アーティスト・加藤ミリヤ初めての小説は、手なずけられない愛を巡る物語。
まず、紹介文の「手なずけられない愛を巡る物語。」の時点で悲しい。
本書のテーマはおそらく"裸"だと思います。
それは見たままの"裸"でもあるし、何も着飾っていない素という意味もあると思います。
今回は超個人的に思ったことを書いていきます。
何の確証も裏付けもなく、私が勝手に感じて思ったことです。
いい言葉が見つからなくて汚い言葉を使ってしまっている部分があります。
ご容赦願います。
いわゆるビッチという女性について思うこと
※本作の主人公はビッチではありません。
私という存在の中身が自分でも想像がつかないくらい複雑で感情はどろどろ渦を巻いたり、ときに冷たくさらさらしたり、感性で感じたり考えたりする脳を持っているのは確かなことなのに、私はこんな私の姿をしている。この容姿、この姿かたちをしていることに特に異常な違和感を持ち続けている。自分の姿を見ると「これが私なのだろうか」という疑問がどうしても生まれてしまう。
こんなにも哀しいのに私は愛する人に抱かれている。堂々と裸をさらしながら。
一夜限りの関係とか、クラブで出会ってそのまま流れでホテルに・・・とか、体だけの関係が続いてるとか、付き合う前にやっちゃってフラれたとか、そういう体験談をしてくれた人が人生の中に何人かいて。
私は「よく知らない人に裸見せるの抵抗ないんですか?毛の処理とかばっちしなんですか?あ、今日毛抜くの忘れてたんだわーとかないんですか?ていうか相手が病気持ってたらどうしようとか思わないんですか?」と聞いたんですが、大体みんな「うーん、まあそこまで見てないでしょ酔ってるし。病気とかあるわけないじゃーん。笑」っていうふわっとした回答でした。
とりあえず「そういうもんですかねえ・・・」と返すんですが、まったく腑に落ちず。
これを見たときもすごく思ったことで、割とみんな(?)なんか気軽っていうか。裸になることに対して。まぐあうことに対して。
それで本作を読んで、鏡に映る自分と自分が思う自分が乖離しているなら裸を相手に見せたって自分の意識では自分ではないわけだから、そこまで考える必要が無いのかなぁと思ったのです。
なんていうか、私はどうしてと聞かれたら分からないけど、なんか当たり前に自分のいつもの顔から下にくっついてるんだから私の体だろう・・・みたいな感じで、だから鏡に映る裸の自分の体と私が心の中で思ってる私は=で結ばれてるんです。
だから哀しいけど恋人に抱かれているときは、「こんなにも哀しいのに私は愛する人に抱かれている。堂々と裸をさらしながら。」という思考にはいかないと思うんですよね。
哀しいから恋人に半分背負ってもらってるとか、ただ寂しいからとか人恋しいからとか、そのときは意味が分からなくても、意味が分からなくなってるという自分の意識と抱かれている現実を=で結ぶことが出来る。
だけど自分の思考と体が別物だったらどうなんだろう?
自分の思考は脳で、体は私という意識がなかったら、確かに色んな人とその場限りで出来るのかもしれない。
もちろん好き嫌いっていう好みはあると思う(たぶん)んだけど、なんか他人事っていうか。
自分が切り離してる体を相手が愛してくれたとして、それってやっぱり他人事になっちゃうんじゃないかなぁと。相手は目に映る全身丸ごと含めて「愛してる」と伝えても、受け取る側が乖離していたらそれはやっぱり通信障害というか、届かない気がする。
私の知らない感覚を書いている本でした。
同じ女性でも全く自分の中にない感覚があるんだなぁと思うと、ほんと人って奥深い。