≪内容≫
ファミリーホーム―虐待を受け保護された子どもたちを、里子として家庭に引き取り、生活を生にする場所。子どもたちは、身体や心に残る虐待の後遺症に苦しみながらも、24時間寄り添ってくれる里親や同じ境遇の子どもと暮らし、笑顔を取り戻していく「育ち直し」の時を生きていた。文庫化に際し、三年後の子どもたちの「今」を追加取材し、大幅加筆。第11回開高健ノンフィクション賞受賞作。
虐待問題は以前からありますが、最近報道された虐待事件は殺されてしまった女の子が残した言葉によってたくさんの人々の心に刻まれたように思います。
この事件、あとは新幹線殺傷事件も親子問題です。
この二つの事件についてカンニング竹山さんが容疑者の生い立ちが知りたいと考えている記事を読みました。
何か凶悪な事件が起きたとき、その容疑者の生い立ちを知りたい、なぜそのような事件が起きたのかはっきりとした答えが欲しいと思う。
なぜならその刃は次には自分、もしくは自分の大切な人、自分の大切にしたい信念に向けられるかもしれないからだ。
生きるためにはそんな人間がいる社会の中に足を踏み入れなければならない。ならばその障害に向き合おうと思うのは当然なことのように思うし、私もカンニング竹山さんの言っていることと同じことを思った。
だけど、この本を読んだ後自分は間違っていたんじゃないか、と思ってしまった。
間違う、というより無知ゆえの考えだったことに気付いたのでした。
私は被虐待児の行動、被虐待児のその後についてのノンフィクションの本を読んだのは初めてでした。
ただニュースを見る、読む、無数のコメントを読む、そのことについて語る人の言葉に耳を傾けるだけでは決して届かない場所があります。
「なぜ、母親が自分の子どもにこのようなことができるのですか?なぜですか?」
なぜ、なぜ、なぜ・・・・・・。口をついて出るのはそれしかない。お粗末な取材者に医師は唸る。
「マスコミは、すぐに因果律で考えるからなー」
そして、きっぱりとこう言った。
「こういう親が、現にいるわけです。説明できないマイナスの部分にわれわれは直面していくしかない。言葉で説明できないけれども、こういう親がいる。そこからスタートしないと。虐待は何よりも、子どもの側から見るべきものです。子どもを含めた虐待全体の中で考えていかないといけない」
確かに、私がこれまで固執してきたのは、ほとんどが親の側の「因果」だったのではないか。一体どれほど、子どもの側に立って虐待を見ていたのだろう。
(中略)
高木香織という母親が「どこから」生まれたのかは検証されるべきことだろうが、加害者の奇怪さばかりにこだわることは、虐待の全体像から遠ざかるのではないか。
だけど、私は社会がこれらの事件に注目して、「なぜ救えなかったのか」「この子の親はどうなっているんだ」「なぜこんな事件が起きてしまったのか」と過激な言葉でもインターネット上でたくさんの意見が交わされているのを見て、これは個人の問題ではなく社会の問題として捉えられているんだと思うと、決して大人達の関心が低いわけではないと思うのです。
みんな出来ることなら救いたいと思ってる。
どうにかしたいと思ってる。だけどそう思う人間の大半は、そういう事件とは無縁の世界で生きてきたと思うのです。
だからどうしたらいいのか分からない。ここはこちら側の人間の正論が届かない世界です。そんな世界に踏み込むのは誰だって、大人だって怖い。でも、助けたい、でも・・・そういった行き場のない思いが、容疑者や近隣の住民、児童相談所、警察、そういった一番事件に近い人たちに向かう。
これらの事件に対して声を上げている人は、事件の当事者とは赤の他人でしょう。
だけど、それでも無関心ではいられない。
それは、私達が容疑者や近隣の住民、児童相談所、警察、そういった一番事件に近い人たちと同じ大人という側にいることを無意識に自覚しているからではないでしょうか。
こういった事件がなくならないことを知りつつ、撲滅を目指す。
容疑者の生い立ちから因果関係を調べ根本の問題を開示する。
県によって異なる児童相談所と警察の連携の問題提起。
被虐児へのケア。彼らのこれからのサポート。
大人達はそれぞれがそれぞれのやり方とスピードで事件に向き合っているように思います。問題を知り、早急に動ける人もいれば、その痛みのダメージに自分が立てなくなってしまう人もいます。20歳を超えた瞬間、同じ足並みになるなんてことはあり得ない。
私はこの本を読んで、里親になるということ、乳児院で働くこと、その強さの片鱗に触れて、とてもじゃないけど自分には出来ないと思いました。
虐待も出来ないけど、被虐待児と向き合うことも出来ない。
彼らの傷は抱きしめて「愛してる」と言い続ければ癒えるわけではない。
彼らの悪夢を共に見て、共に苦しみ、共に乗り越えて行かなければならない。その過程で大人が匙を投げれば、その度に彼らの傷も深くなり、増えていく。そう思うと私は目を瞑ってしまいたくなる。
見たくないから、事件を起こした大人にも助けられなかった行政にも心底腹が立つ。更には死んでしまった子供と悪夢を見続ける子供にはかける言葉さえ見つけられない。
自分は弱いのに。いや、弱いから吠えることしか出来ないのだ。
私は、今回の事件でもそうだし、毎回の虐待事件の時にたくさんの怒りのコメントで溢れることにほっとしてる。
もしも、自分の近隣で虐待があって、その悲鳴が聞こえても、そういう怒りのコメント、社会の関心度が低ければ私は通報出来ないかもしれない。
どこまでが泣き声でどこからが悲鳴なのか、わかる自信がないのです。
もしかしたら自分の勘違いかもしれない、自分の気にし過ぎなのかもしれない、そう思って蓋をしてしまうかもしれない。
虐待されて育った子供がその傷を持ったまま大人になる。
その傷が新たな傷を生むなら、大人はその傷を子供の間に癒さなければと思う。
私はこういう親との不和で生まれる傷に対して敏感な方だと思う。なぜかは自分では分からないけれど、親との不和だけではなく、親の一方的な決別は子供に影を作る。それを背負った同級生の姿が小学校の時から忘れられない。
私の歩みは亀のように遅くて、でも、ホールデン君のように「ライ麦畑の崖から落ちそうな子供を捕まえる」人間になりたいと思ってる。
長くなったので勝手ながら書評は次の記事に致します。
現実から目をそらさないことも、涙で見えなくなることもやめたい。